弐拾壱
城に入る前から、頻繁に関羽に話しかけられる。
栞喃は彼女の問いなどにはきちんと答えているものの、目はずっとその猫耳を凝視していた。
本当に、猫耳だけなのか、猫族とは。
生まれて初めて見る猫族に、持ち前の好奇心は掻き立てられた。
触ってみたいが、それは失礼だ。少なくとも狗族では、同性であろうと親しくない者に尻尾や耳を触らせない。
それがあるから、栞喃も見つめるだけで衝動をぐっと堪えている。
しかし、関羽はくすくすと笑って、
「触ってみる?」
「えっ」
瞬間、栞喃の顔が晴れやかに咲く。
されどすぐにはっとしてふるふるとかぶりを振った。
「や、やっぱ良い! ごめん」
「そう? わたしは別に構わないんだけど」
そう言われると、揺らぐ。
うう……と唸りながら栞喃は関羽から距離を取った。
関羽はその様に笑声を漏らし続けた。彼女は、同年代の娘と接する機会を持って喜んでいるようではある。栞喃が狗族であることは、さほど気に留めていない様子だった。
城に入ってからは、前を歩く夏侯淵が良く兵士に話しかけられた。兵士達の中でも夏侯淵は死んだことになっていたようで、信じられないと言わんばかりに兵士の一軍が夏侯淵に群がって一様に泣き出した時は、本気で身の置き場に困った。かつ、彼らの雄叫びのよう泣き声にキレかけた。あれは、耳を潰していても五月蠅かった。
兵士達を何とか落ち着かせて仕事に戻らせた夏侯淵は、やはり疲れていた。帰還を喜んでもらえるのは嬉しいのだろうが、彼はあの泣き声の大合唱を間近で聞いているのだ。栞喃であれば耳が潰れいようがいまいが関係無く痛い。
なので、とてもじゃないが良かったねーなんて言えない。
栞喃に謝罪をして、耳を押さえながら歩き出す夏侯淵に、苦笑が滲む。
すると、関羽が不意に栞喃の腕に己のそれを絡めて耳打ちしてきた。
「夏侯淵、今まで狗族の村にいたの?」
密着して小声なのは周囲の耳を気にしてのことだろう。栞喃が己の正体を隠していることを気遣ってくれているのだ。それに、夏侯淵のことも。
栞喃は小さく頷いた。簡単に事の次第を話せば、彼女は何処か安堵したように薄く微笑む。
「わたしが言うのもおかしいのだけれど……夏侯淵を助けてくれてありがとう。夏侯惇も、曹操も喜ぶわ」
夏侯惇。
夏侯淵と同じ名字だ。
ってことは、彼が夏侯淵の言う《兄者》なのかもしれない。
栞喃は夏侯淵の背中を見つめ、ふっと目を細めた。
暫く歩いていると、誰かが走ってくるような慌ただしい足音が聞こえてきた。
かと思えばすぐ目の前の角から一人の青年が躍り出た。左目を眼帯で覆った彼は、何処か夏侯淵に似た面立ちをしている。
彼が夏侯淵を捕らえた瞬間、夏侯淵の身体が目に見えて強ばった。
対して夏侯惇は酷く驚いているものの、やはり隻眼には喜色がくっきりと浮かんでいる。
「……夏侯淵、か?」
「あ、にじゃ……その、」
一歩、彼が退がった。
栞喃はその瞬間夏侯淵の背後へと歩き、げしっと蹴りつけた。
「いって!」
「栞喃っ」
「ああもう、覚悟決めたんだろうが。今更緊張してどうすんのさ」
折角会いたかった人に会えたんだから、もうちょい気楽にしなよ。
ぽふっと振り返った夏侯淵の頭を撫でてやれば、夏侯淵は瞳を揺らす。
勿論、栞喃とてそれも難しいことなのだと分かっている。
けれども今この場で、彼が言いたいことを言えなければここに戻ってきた意味が無い。ただ会いに来ただけではないのだと、栞喃は知っている。
だから要らない力を抜いていなければ、言える言葉も出てこない。
……つくづく、自分は夏侯淵の保護者っぽくなっているように思う。
こっそりと溜息をついた。
と、視線を感じて首を巡らせる。
夏侯惇だ。不思議そうに見つめている。栞喃が会釈すると、彼も頭を軽く下げた。
「夏侯淵? その娘は……」
「オレの、恩人……です」
敬語を使うのは負い目からか。
夏侯惇の顔をまともに見れないらしい夏侯淵は尻窄みになりながら、栞喃を紹介する。一発殴ろうかと思ったが、その前に夏侯惇に呼ばれ気を殺がれた。
夏侯惇は深く頭を下げて、
「夏侯淵を助けてくれたこと、感謝する」
「いや、別にそんな感謝されるようなもんじゃないよ。たまたま谷に流れてきたのを拾っただけだし」
片手を振って苦笑すると、夏侯惇は「いや」と首を左右に振る。
それ程に、彼にとって夏侯淵は大事な身内だったのだろう。兄弟のように育ったと言っていたし、対立した時はさぞ辛かったろうと栞喃が想像しても実際には及ばぬことであろう。彼女には、そのような対立をしたことは生まれてこの方無い。精々殴り合い、噛みつき合い程度だ。……それでも確実に重傷は負うが。
「曹操様が兵士の報告を聞いて喜んでおられる。すぐにでも顔を見せに行こう」
「あ、ああ……じゃあ栞喃も」
「それは勘弁。曹操って、ここのお偉いさんだろ? あたしそういう人と会うのはちょっと……」
あたし、人間の世界の礼儀作法なんて全然知らないし。
頭を覆う頭巾を撫でながら苦々しく言うと、夏侯惇が不思議そうに首を傾けた。
そこへ関羽がそっと耳打ちする。
途端、隻眼が端が裂けんばかりに見開かれた。
大声を出そうと大きく開いた彼の口を、関羽が即座に手で塞ぐ。周囲を見渡し、また夏侯惇に耳打ちした。
夏侯惇は謝罪しつつ、まじまじと栞喃を見つめた。
「……本当に、あの狗族なのか?」
「うん。ちゃんと耳も尻尾もあるよ。隠してるけど。誰かさんが隠せっつったからもう痛くて痛くて」
「……文句を言うな。仕方がないだろ。隠さなければ騒ぎになる。それで一番被害を被るのはお前なんだぞ」
「だからって毎日これだと手入れも出来ないし、形が悪くなっちまいそうで心配なんだよ」
むう、と耳のある場所を撫でれば夏侯惇が思案する。そして関羽を呼んだ。
「お前の部屋なら、外しても大丈夫だろう。関羽、お前は彼女と共に部屋にいてくれないか」
関羽は二つ返事で了承した。
「分かったわ。じゃあ、栞喃。わたしの部屋に案内するわね」
「はいよー。んじゃ、夏侯淵」
夏侯淵ににっこりと笑いかけ、彼の脇腹に手刀を叩き込んだ。痛みが引くように強めに。
夏侯淵は脇腹を押さえて身体を曲げた。
「な……っお前また……!」
「また緊張するんじゃないよ。言いたいこと、まだ言えてないだろ? その曹操って人に会った後、ちゃんと言いな」
言い聞かせるように夏侯淵に言い、栞喃はくるりときびすを返す。
「関羽、何処行けば良いの?」
「あ、えと、こっちよ。……夏侯淵は大丈夫なの? 凄く痛そうだったけど」
「大丈夫大丈夫。男だもん」
関羽に笑って見せ、栞喃は促した。
‡‡‡
栞喃の感性では推し量れないような、高価そうな調度品が整然と置かれた関羽の私室は、仄かに甘い香りが漂っていた。
関羽に訊けば、香を焚いているらしい。これがこの世界で流通する香の匂いなのか。
一度深呼吸する栞喃に笑い、関羽は棚から干菓子を取り出した。
しかし、栞喃は手を軽く振ってそれを断る。
「そう? ……あ、もしかして干菓子は嫌いだったかしら?」
「ううん、今からここ出て行くから」
「え――――」
目を剥く関羽の前で、栞喃は頭巾を取り去った。外套も外し、尻尾を取り出す。解放感。
栞喃は関羽に微笑みかけると、身を翻して部屋を飛び出した。
関羽は慌てて彼女を追いかけた。
「ちょっと、栞喃!? 帰るって、待って!!」
なんて速さなの!?
栞喃は驚くべき神速を以て廊下を走っていく。
関羽など、あっという間に離されてしまった。
それでも追いかける。もっと話をしたい関羽の心情もあるが、何より夏侯淵のことを思ってのことでもあった。こんな形で恩人と別れてしまったら、夏侯淵はきっと悲しむ。
――――だが、結局は。
城を出ると完全に見失ってしまったのだった。
「そんな……」
関羽は乱れた息を整えながら、周囲を見渡した。
やはり、何処にも見当たらない――――。
それから暫く。
何処からか狼の遠吠えのような声を聞いたような気がする。
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