弐拾
正午だからか、町の至る所から芳しい香りが漂ってくる。
それに足が向きそうになるのに耐えながら、栞喃は夏侯淵の背後に続いた。
彼は自覚していないだろうが、その足取りは速かった。
彼自身、やはり長年寄り添うように生きてきた《兄者》に早く会いたいと心の奥底で思っているのだ。それだけ、大事な存在なのだろう。
真っ直ぐに城を目指す夏侯淵に、栞喃はふっと笑みをこぼした。
しかし、ふと足を止める。
このまま自分が城までついて行って良いのだろうか。
狗族はこの世界では忌まわしき存在でしかない。それはあの老婆の反応や、夏侯淵に隠れて訊ねた人々の反応から十分過ぎる程に分かっている。
栞喃が城に同行して正体がバレてしまったら、夏侯淵はどうなるのだろう。
斬首?
追放?
城には行かずに帰った方が良いのではないか。
元々夏侯淵が兌州に着くまでのつもりだった。
だから、一緒に行かないでこの場から離れた方が彼の為にも良いのでは――――。
「栞喃!!」
「っ、う、わ……!」
思案に没頭していたところに腕を捕まれて引き寄せられる。意識が一気に現実に引き戻され、それに戸惑った。体勢を崩しかけたところに顔を何かにぶつけ、「ぶっ」と変な声が出てしまった。
姿勢を正して仰げば、そこにはやけに憔悴しきった夏侯淵の顔が。ぶつかったのは夏侯淵の胸板らしい。
間近だということに気付いて慌てて離れると、
「この、馬鹿!」
「い゛っ!!」
何故か頭に拳骨を落とされた。
一瞬だけ星が視界に飛び散った。ああ、頭が揺れる。鈍い痛み。
栞喃は頭頂を押さえて夏侯淵を睨んだ。痛みに浮かんだ涙で滲んだ視界で、夏侯淵がうっと怯んだのがぼんやりと見えた。
「何するんだよ、人が考え事してる時に……」
「それはこっちの科白だ。考え事するのは勝手だがオレから離れるんじゃない」
帰ったんじゃないかと思っただろうが。
ぼそりと呟かれた言葉は、潰れた耳でもしっかりと聞こえた。
全身が一気に熱くなった。
――――嬉しい。
そう思ってくれたのは、少なくとも多少は自分に返って欲しくないと思っているということで。
いけないことだと分かっているけれど、とても嬉しい。
早く離れとかないと、手遅れになるんだろうなあ、これ。
心の片隅で、そんなことを思った。
それだけは絶対、駄目だ。
今の栞喃には、親を、仲間を斬り捨てる覚悟が出来ない。
これ以上自分の感情で後先考えずに行動していたら、必ず後悔する。そして、その時にはもう遅い。
再び思案の淵に沈みかけた思考を無理矢理浮上させて、栞喃は夏侯淵の額に軽く手刀を落とした。
「あたしが離れようがこっちの勝手だい。そんなことより、あんたはさっさと会いに行け! あんたはあたしの息子じゃないんだから、一人で会いに行けるだろ! っていうか、あたしはもちっと人間の世界を見たいんだっつの」
町に入る前と言っていたことが違う。
そのことに一人苦笑しながら言った瞬間である。
「――――夏侯淵?」
栞喃のものではない、少女の声がした。
夏侯淵が栞喃の後方を見やり、瞠目する。顎を落として、停止した。
栞喃はそれを怪訝に思ってくるりと振り返る。
そこには、黒い瞳の、茶色の長髪を流した少女が驚きと喜びが入り交じったような風情で夏侯淵を見つめていた。その頭には、二つの三角形――――まったき猫の耳。
栞喃は目を細めた。
「……混血」
ぽつりと呟いた彼女の言葉に、少女はえっと栞喃を見る。どうしてそれを? と言わんばかりに、警戒を露わに強く見据えられた。
それを、夏侯淵が庇うように間に立つ。
「夏侯淵。良かった、あなた生きていたのね? でも、その子は一体……?」
「それは長くなるから後で話す。人間のいる場所では、ちょっと……」
夏侯淵が歯切れ悪く言うと、少女は目を見開いた。
「人間のいる場所じゃって……まさかこの子、」
「狗族だよ」
同族だとでも言いそうだったから、その前に小声で遮る。
すると夏侯淵が咎めるように名前を呼んできた。
栞喃は肩をすくめてみせる。
「狗族って……本当に存在しているなんて、」
「そんなことより。夏侯淵。さっさと《兄者》に会っておいで。日が暮れちまうだろ」
ばしんと背中を叩き、夏侯淵を少女に押しつける。
恐らくはこの混血が夏侯淵の言っていた《関羽》なのだろう。ならば彼女に預ければ、そのまま《兄者》のもとに連れて行ってもらえるだろう。関羽の様子を見るに拒絶される心配は無さそうだ。ただ、酷く驚かれるだろうけれど。
とにもかくにも、自分の目的はこれで終わりだ。
「あたしは町の中を彷徨いてから谷に帰るよ。こっからは一人で行けるだろ?」
頭を後ろから撫でて、栞喃は笑う。
けれど夏侯淵は即座に栞喃を振り返ると、言いにくそうに唇を引き結び、やがてそっと彼女の手を取った。
――――一緒に兄者に会って欲しい。
彼は、そう求めた。
「……はい?」
このまま別れるつもりでいた栞喃は、面食らって頓狂な声を出した。
「え? いや、一緒に会うって……あたしはあんたの母親か!」
「何でそうなる!」
「だってまるっきり自分だけじゃ心細いからお母さんついて来てーみたいな、そんな感じじゃないか!」
「……やっぱりお前は馬鹿だ!」
恩人を紹介しない訳にはいかないだろう。
覚悟を決めた目で、夏侯淵はそう言った。
もう少し傍にいれる。
そのように思えたのは一瞬だった。
すぐに、彼女の心臓はきゅっと絞まって痛みを訴えた。
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