拾玖





 二人は翌朝早くに山を下り、町を目指した。

 その様子を空を《泳ぎ》ながら眺める少年は、くすくすと笑う。額からは、まだ血が流れたままだ。


「まるで絹楠と同じじゃないか」


 やはり血は争えぬな。
 いたく楽しげに独白する彼はふとその場に《立って》周囲を見渡す。

 彼らはもう心配は要らないだろう。
 座標は調整し、すぐに目的が果たせるようにしてやった。あの娘もいつ現れたあの森に戻っても谷に帰れるように入り口を固定してある。


「……さて、我は我のやることを終わらせようか」


 猫族の村は何処にあるだろうか。
 顎を撫でながら、考え込む。

 彼の虹色に輝く長髪が、風に踊らされさらさらと揺れる。



‡‡‡




 これは奇跡かと思った。
 辿り着いた町の人間に訊ねれば、何とこの町は目指す町より一里も離れていないのだ。これならば一月もあれば到着することが出来る。

 夏侯淵はすぐに町を出て兌州を目指した。

 栞喃も、大人しく彼に従い、目立つような行動は心なし控えた。……心なしなので、実際は大いに目立っていた。全てが物珍しい彼女にとって、やはりじっとしておけと言う方が無理な話だったのだ。
 立ち寄った町では必ず栞喃の手を握っていた。恥ずかしいとか、それどころではない。いつ何処で彼女の正体がバレてしまうか、そればかりが気がかりだった。

 それは栞喃にも分かっていたようで、町を訪れるに連れ、次第に落ち着いていくのが分かった。
 目的地の手前の町に至ると、むしろ悄然(しょうぜん)としているという印象を受けるまでに静かになり、時折思案に没頭して夏侯淵の話を聞いていないこともうんと増えた。

 たまに、横顔が泣きそうに歪むことがある。
 夏侯淵が声をかけるとすぐに笑みに隠されてしまうが、彼女がこの人間の世界に何かを感じていることは間違い無かった。何を、までは怖くて訊けないのだけれど。

 人間の世界に来れば、彼女が人間に対し落胆するのは目に見えていた。
 夏侯淵はそれが恐ろしかった。
 あの時ちゃんと谷に帰していたら、どんなに良かったか。

 人間を嫌うなら、自分からも彼女の心は離れて行くだろうそのことに、夏侯淵は怯えを抱いていた。


「――――おお、あれが夏侯淵がいた町?」

「ああ、そうだ」


 何とか、栞喃の正体を隠してここまで至れた。
 夏侯淵は胸を撫で下ろし、長々と吐息を漏らした。

 彼方に見える町の輪郭が、とても懐かしい。もうずっと見ていなかったような、そんな気になってしまう。
 目元を和ませて微笑む夏侯淵の背を、栞喃が不意に強く叩いた。


「ほら、さっさと行こう。ちゃんと面見せないと」

「あ、ああ……」


 栞喃の言葉に、はっとする。そして、ずんと胸が重く沈んだ。
 ああ、そうだった。
 自分があの町に入ると言うことは、兄者――――夏侯惇達と顔を合わせなければならないと言うことだ。
 彼は曹操に、自分のことはどのように話しているのだろう。
 このまま顔を合わせに行って良いのだろうか。
 ……どんな顔をして会えば良い?

 今まで忘れていた不安が、ここに来てぶわりと膨れ上がる。
 夏侯淵は地面を見下ろし胸に拳を押いた。

 そんな彼に、栞喃はぐっと眉間に皺を寄せる。


「夏侯淵?」

「いや……大丈夫だ。行こう」

「……」


 栞喃はそこで溜息をついて彼の前に立った。
 夏侯淵をじっと睨め上げて、手を伸ばす。頭を掴んだ。
 えっと思う暇も無くぐいと引き寄せられて彼女の肩口に額がぶつかった。


「栞喃?」

「会うまではあたしがいるから、あんたはしゃんとしときな。今から相手驚かせるんだ、挙動不審だと情けないよ」


 ぽふぽふと頭を撫でられる。
 大丈夫、大丈夫と穏やかな声で繰り返されると、本当にそんな気がしてくるから不思議だ。洗脳かと思えば、違うと頭の片隅にいる誰かが否定する。

 夏侯淵は栞喃の背中に手をやろうとし――――避けられた。


「栞喃?」

「……さて。さっさと行こうか」


 まるで、夏侯淵から逃げるように歩き出した彼女に、彼は怪訝に眉根を寄せた。



‡‡‡




 昔、母に聞いたことがあった。

 この世界の外はどうなっているのか。
 知りもしない筈の母親にせがんで訊いた。

 母は娘の期待に応えようとして持ち前の想像力を行使したんだと――――思っていた。

 けれど、違うのだ。
 人間達の世界に出てみて良く分かった。



 母の話と全く一緒だと言うことが。



 母は外の世界に行ったことがあったのだ。
 でなければこうも一致する訳がない。
 それは父も知っているのだろうか。

 いや、そんなことはどうでも良いのだ。
 もっと大きな問題がある。

 母はいつも言っていた。


『この谷と、外の世界はね、特の流れが違うのよ』


 時には谷の一年が外の百年、
 時には谷の百年が外の一年、
 時には谷の千年が外の一ヶ月。

 だから、外に出るなら谷に帰らないことを覚悟しておかなければならないのよ――――と。

 だとすれば、今頃谷はどれだけの時が流れている?
 一週間?
 一ヶ月?
 一年?
 分からない。

 ここに長く居てはいけない。
 いたら、取り残される。
 谷に居場所が無くなる。
 帰る場所が――――消える。

 外に出てはいけなかったのだ。
 あのまますぐに谷に戻っていれば良かったのだ。
 父が谷の外へ出るのを堅く禁じていたのは、もしかしてこのことがあったから?


『小さな好奇心が、知ってはならないことを引き寄せてしまうこともある』


 父の言っていた言葉の意味が、今、彼女に重くのし掛かる。



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