拾漆





 目覚めてまず気になったのは栞喃の安否である。
 夏侯淵は幸いにも側に転がっていた荷物と弓矢を持って周囲を捜索していた。

 夏侯淵は栞喃が川に落ちた時、彼女を追って飛び込んだ四つ足の化け物の尻尾を掴み、一緒に落下した。

 何故川に落ちた自分がこんな森の中にいるのか不思議だけれども、それよりも栞喃が心配だった。もし彼女もここにいるのだとすれば、離れた場所にいるのは危険だ。あの化け物が近くにいるかもしれないのだから。
 茂みを掻き分け、なるべく声を出さずに彼女の姿を捜す。化け物を警戒しながら栞喃を捜すというのは、とても難しい。
栞喃も気が付いたらじっとしている訳もないだろうし、ひょっとしたら今まさに化け物に襲われているのではないか――――そう思うと胸がきゅっと苦しくなった。
 早く、無事な姿を確認したい。その思いに駆られ、焦りばかりが増していく。

 けれども、不意に聞こえた老婆の悲鳴。
 その後に続いた聞き慣れた声に、別の意味で心臓が収縮した。

 身を翻して声のした方へ疾駆すれば、栞喃が丁度笊を地面に置いているのが木々の間から見えた。近付けば彼女の前に《人間の》老婆が腰を抜かしていた。
 夏侯淵は舌打ちして声を張り上げた。


「栞喃!!」

「え? ……あ、あれ?」


 老婆は完全に栞喃に怯えきっていた。これが人間の反応だとは言え、栞喃にはさぞ辛いことだろう。
 再び舌打ちして、困惑した栞喃の腕を掴み駆け出した。


「え? ちょっと夏侯淵!?」

「良いから走れ! ここから少しでも離れないと面倒なことになるぞ!」


 振り返って見た栞喃は銀色の瞳を大きく見開いた。
 しまった失言だったと思っても、今それを誤魔化す余裕は無い。栞喃を老婆からも、化け物からも遠ざけなければならないのだ。

 何処かに落ち着いてから話そうと、夏侯淵はひたすらに走り抜けた。



‡‡‡




 岩窟(がんくつ)を見つけたのは幸いであった。
 そこに栞喃を隠れさせ、夏侯淵は彼女の後頭部の怪我を診てやった。ぱっくりと裂けているが、それ程深くはない。
 ただ出血の量が多いので大事を取って、近くの町まで夏侯淵が背負っていくことにした。本当はこのまま栞喃を谷に帰す方が良いのだろうが、帰り道は彼女にも分からないし、この森にはあの化け物や人間もいる。栞喃を一人にすることは到底出来なかった。

 傷の手当てを済ませた夏侯淵は、本来は自分が使う筈だった外套で栞喃の身体を覆い、それから頭巾を被せて耳を隠させた。耳が痛いと文句を言われたが、こればかりは仕方がない。残る問題は銀の瞳だが、俯き加減にさせてなるべく色を悟られないようにすれば良いだろう。見られた場合は病気でこんな色になってしまったのだと無理矢理にでも誤魔化せば良い。

 そう決めて、夏侯淵は栞喃を背負った。大丈夫だと言い張ったが、あの出血量であれだけ走らせてしまえば、貧血になっても何らおかしくはない。


「そんな気にし過ぎだと思うんだけど……」

「良いから、大人しく甘えておけ」


 ぶつぶつと不満を漏らす栞喃を宥め、夏侯淵は歩き出す。

 そうしながら、これからどうするかを考えた。
 まずは栞喃を休ませた後、彼女を谷に帰す方法を探さなければならない。無事に帰らせてから、兌州へ向かおう。
 それを栞喃にも話すと、彼女は渋面を作った。


「それだと、あんたが迷惑するじゃないか。折角『兄者』に会いに帰るつもりなのに、邪魔は出来ないよ」


 あたしのことは良いから、あんたはさっさと帰って決着を着けてきなって。
 ぽんと頭を撫でられた。

 けれど、夏侯淵は首を左右に振った。


「いや、恩人を無事に帰すのは当たり前のことだ。お前は気にしなくて良い」

「けど、さ……」


 栞喃はそれきり黙り込んでしまった。時折、唸るような声が漏れる。
 夏侯淵はそれを了承したととって、少しばかり足を早めた。方針が決まれば、目的を果たす為に更に思案を巡らせる時間は確保しておきたい。ただでさえ、考えるのは苦手なのだから。

 しかし、森を抜けて暫く歩いても町は一向に見えてこなかった。小さな村が森のすぐ近くに見られたが、恐らくはあの老婆の住む村だろうと立ち寄ることは避けた。
 自分達が倒れていた森から離れてしまうのは不便だが……、どれくらいかかるのだろう。


「栞喃。今日は野宿で良いか」

「あたしは別に良いよ。ってか、今日はまだゆっくりした方が良いと思う。あたし、まだ少し状況が分かってないからさ。少し整理させてくれないかい?」

「分かった。なら、野宿出来そうな場所を探そう」


 栞喃の求めに応じ、夏侯淵は進路を変える。右手にあった小山に入り、手頃な場所を探そうと緩やかな山道を登り始めた。
 栞喃が自分も探そうと申し出たが、即座に却下した。怪我人に、そんなことはさせられない。させてはならない。

 それに、本人は普通に振る舞っているが、恐らくはまだ頭の中ではあの老婆の反応が残っているに違いないのだ。

 栞喃を労(いたわ)りつつ、夏侯淵は進んだ。



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