拾陸


※注意



「いたたた……」


 目の前で眉間を撫でる少年に、彼はぐにゃりと顔をしかめた。

 少年の顔は赤い液体でべったりと濡れている。そこからだろう、噎(む)せる程に濃厚な鉄の臭いがした。

 時折手が離れて小さく深く穿たれた穴が現れた。液体は、そこから止め処なく溢れている。
 しかし、少年はまるで転んで膝をすりむいてしまったかのような軽い反応である。その傷は、恐らくは頭蓋すら貫いているだろうに、少年は悶絶しなければ死ぬことも無い。

――――当たり前だ。
 この少年は人ではないのだから。

 彼は嘆息して腕を組んだ。


「そのくらい治せるだろうに、何故放置する」

「仕方ないだろう、あの人間が放ったのは狗族の気が籠もった矢だ。あの矢で傷つけられたら、我は治せぬ」


 子供に噛みつかれた気分だよ。
 言葉の割には愉快そうに語る少年に、彼は蔑視を向けた。

 少年の所為でまた一つ問題が生まれた。そのことを少年は全く悪びれる様子が無かった。その上己もこの谷を出て行かねばならぬなどと宣(のたま)うのだから、さしもの彼も憤る。
 少年が気まぐれな性格をしていて、かつて妻もそれに巻き込まれたのだとは十二分に承知している。

 けども、よしや少年が狗族にとって尊い存在だとしても、その勝手を許す程、彼は敬虔(けいけん)ではなかった。


「谷の外へは、儂が行く」

「止めておけ。指導者(おまえ)がいなくなれば狗族の村が回らんぞ」


 少年が自分の目の届かぬ場所で好き勝手するよりはかなりましだ。
 少年の感覚は常識には当てはまらない。外で厄介なことをすることは何としても阻止しておきたかった。その気まぐれによって半ば強引に外に放り出された二人――――否、娘の為にも。

 彼の心中を察しているのかいないのか、少年は無邪気にけらけらと笑う。口角がつり上がると靨(えくぼ)が生まれ、乾いて変色した液体に無数のヒビが入った。


「我に任せろ、ただあの白猫を殺すだけだ。そろそろ、《あれ》の末裔の身体には抑え切れぬであろうからな。気を悪くするでないぞ。狗族の者が外におらねば、我は出ていけぬのだ」


 それで、あの人間と好奇心の強い娘が利用された。
 彼にとっては許せるものではない。よしや、古の災禍を今度こそ始末する為と言えども、それを身に余る光栄だとも、僥倖(ぎょうこう)だとも思えぬ。
 百戦錬磨の鋭い眼光が彼を射抜く。

 さりとて、それが少年に通用するかと言えば、否だ。
 肩をすくめて受け流し、眉間から手を離した。液体はまだまだ溢れ出している。


「では、我はそろそろ行くぞ。お前の娘は我がちゃんと連れ戻す。……娘の意思次第だがな」


 身体を反転させて片手を振れば、液体が飛び散った。

 待て、と彼は声色低く言う。
 けれども――――人を越えた領域の存在たる少年は、そこで姿を砂塵と変え、風にさらわれるようにその場を離れていった。


『我からの下知(げじ)だ。お前は我が戻るまで狗族をまとめておけ。《狭間》の監視の徹底も、努々(ゆめゆめ)怠るでないぞ』


 彼は歯噛みする。
 下知――――命令が下されてしまっては、自分にはこれ以上逆らうことは許されない。諫言すらも口に出来ないのだ。
 それが自分の立場。

 あの少年に娘の何を預けられるだろう。
 この事態を面白がっているあの少年に。

 彼は舌を打つ。地面に拳を叩きつけ、低く唸る。

 あのまま死んでしまえば良い。
 そう、強く思う。



‡‡‡




 意識が浮上すると、徐々に後頭部に痛みを覚えてきた。

 栞喃は瞼を押し開き、夢現(ゆめうつつ)で後頭部をさすりながら上体を起こす。ぬるりとした感触にぎょっとして手を見れば、真っ赤に染まっていた。
 もう一度後頭部を触れば、少しだけぱっくりと裂けてしまっている箇所を見つけた。

 どうしてこんな傷が――――記憶を手繰り、納得する。


「あたし、落ちたんだっけ」


 しかし、あの下は渓流だった筈。
 だのに何故か自分は濡れていないし、よくよく周囲を見渡せばここは何処かの森の中だ。谷の森とは、微妙に匂いが違う。

 栞喃は立ち上がって周囲を警戒しながら歩き出した。

 夏侯淵はあの後どうなっただろうか。
 自分が落ちた後、あの化け物から逃げおおせただろうか。谷から外に出られただろうか。
 後頭部の怪我よりも、そちらの方が気になった。

 取り敢えずは夏侯淵の姿を探してみようと茂みに手をかけたその刹那。右手の方に気配を感じた。
 ばっと見やれば、そこには老婆。笊(ざる)を持って目玉が飛び出そうな程に見開いて栞喃を凝視している。
 彼女の頭には、耳が無い。


「……人間……?」


 こてんと首を傾げれば、老婆は途端にか細い悲鳴を上げた。


「ひいいいぃぃぃっ!?」

「え? えっ?」


 突然のそれに栞喃は困惑して銀の瞳を揺らす。
 腰を抜かした老婆を心配して歩み寄って手を差し出せば、ぱんっと弾かれた。


「なっ」

「だっ、誰か!! 化け物、化け物があぁ!!」


 バ ケ モ ノ。
 栞喃は動きを止めた。

 老婆は怯えきってずりずりと這いずって栞喃から逃げ出そうとする。取り落とした笊のことなど、忘れてしまっているようだ。沢山の山菜がこぼれてしまっていた。

 それにはっと気付いた栞喃は拾い上げて笊に戻し、差し出してやると彼女はそれすらも手を大きく振って拒絶する。


「く、来るんじゃないよ!! ば、化け物!! 化け物!!」


 栞喃は笊を下げた。

――――ああ、これが。
 これが親父様に聞いた人間の反応なのか。

 蔑むだけでなく、狗族に対して怯えている。
 胸にちくりとした痛みを感じると同時に、彼女に対する罪悪感がぶわりと噴き上がった。
 栞喃は笊を地面に置き、その場を離れようとした。


 けれども。


「栞喃!!」

「え? ……あ、あれ?」


 左手の茂みから飛び出してきたのは夏侯淵だ。

 唐突な登場に目を瞠っていると、彼は老婆を見て舌打ちし、栞喃の腕を掴んでその場から駆け出した。


「え? ちょっと夏侯淵!?」

「良いから走れ! ここから少しでも離れないと面倒なことになるぞ!」

「――――」


 面倒なこと――――その言葉に思い出したのは夏侯淵を殺そうとした狗族の男衆だ。
 この人の世では、夏侯淵の立場だったのが自分のそれに変わる。
 今度は自分が排他される側になる。

 それが、人の世における狗族の扱い。

 実感した途端、胸は鉛のように重たくなった。



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