拾伍
『今夜にこの谷を出る』
夏侯淵は、戻ってきた栞喃に告げた。
今日洞窟に栞喃とは別の狗族が現れたことで、今すぐにでも出て行かなければと思ったのだ。
その時の栞喃は一瞬だけ固まった。その後には眦を下げてしゅんと耳を倒して分かったと頷いた。その様子は、犬とまるきり同じだった。
自分もついて行きたいと言い出しかねない――――些細な願望として胸中に抱いていた予想とは反して彼女は特に何も言わず、狗族の村へと戻っていった。夏侯淵の数日分の食料を用意してくれるらしい。そこまでしなくて良いと言ったのだが、『ここまで面倒を見させてよ』と押し切られてしまった。
月光の注ぐ洞窟の吹き抜けで一人、夏侯淵は弓矢の手入れをしていた。
そうしながら考えることは、恩人のことだ。
栞喃が狗族であることが、今ではどうでも良い。
十三支――――否、猫族のことも同様だ。ただ耳があって身体能力が優れているだけ。そう考えられている。
過去の自分では到底考えられない変化だ。
暫く栞喃と触れ合って視野が広がった、そう言うことなのだろうか。
もしもっと早く栞喃に出会えていたなら、こんなことにはならなかっただろうか。その時も、関羽のように蔑んで傷つけるばかりでまともに相手にしなかったかもしれない。
彼女が悲しむ姿を思い浮かべると、胸が痛んでそれを堅く拒絶する。それだけは絶対にしたくないと強く思う。
反対に栞喃の笑顔を思い出せば熱くなって、表情がいやが上にも弛む。
……多分、《そういうこと》なんだろう。
だがそれもまだ淡いもので、すぐにでも消せる程度のものだ。
今のうちに離れられれば、きっと――――。
「……?」
不意に、夏侯淵は思案を中断する。
立ち上がって出口の方を睨んだ。
たたたっと何かが駆けるような音が聞こえてくる。栞喃だろうか、それとも他の狗族か。
弓矢を手放さずにそちらを黙って見据える。
果たして――――漆黒の闇から躍り出たのは栞喃だ。大きな荷物を持っているけれど、酷く慌てている。珍しく肩で呼吸をし、額から汗を垂らしていた。
夏侯淵は柳眉を顰めた。
「栞喃? どうかし――――」
「逃げるよ!!」
親父様があんたを殺すって!
彼女の言葉に、夏侯淵は目を剥いた。
‡‡‡
栞乂の様子がおかしい。
栞喃が自宅に帰った時、彼は武器を研いでいた。
その背中が、まるで熊をしとめに行くかのような剣呑な雰囲気をまとっていて、栞喃は怪訝に顔をしかめながら彼を呼んだ。
「親父様? どうしたのさ。熊でも狩りに行くの」
「いいや。手負いの猿だ」
「猿?」
「言った筈だ。見つかっても儂は何もせぬと。……長として行動を起こす」
一瞬何を言っているのか分からなかった。
父の言葉を噛み砕くように反芻(はんすう)し、ようやっと理解する。
背筋が冷えた。
「何、で……」
蘭煕には口止めをしておいた筈。
だのにどうしてバレている?
狼狽する栞喃に、栞乂は肩越しに振り返って目を細めた。
「那鐘が姿を見ている。幸い、お前と一緒にいたところではなかったが」
那鐘が報告した以上は仕方がない。
人間は始末する。
栞喃は青ざめた。
「ちょっ、ちょっと待っとくれよ! 夏侯淵は今夜谷を出ていくつもりだったんだ、だから――――」
「儂は、狗族の長だ。卑しい人間の事情になど左右されぬ」
立ち上がった栞乂は栞喃に向き直り、くわっと牙を剥いた。
それだけで栞喃は竦(すく)み上がってその場に座り込んでしまった。
栞喃は歯噛みした。
なんて間が悪いのだ!
夏侯淵が今夜出て行くって言っているのに、始末されようとしているなんて。
自分がもっと周りを見れていれば――――那鐘にさえ気付いていれば!
……急がなければ。
「……っ」
栞喃は己の頬をぱしんと強くはたいた。
栞乂をきっと睨め上げて立ち上がり、慌ただしく家の奥へと走っていった。まだ、まだ間に合う筈だ。最低限の荷物を揃えて彼を谷の外まで案内してやれば――――。
娘を黙って見送った栞乂は、一人重々しく嘆息した。
‡‡‡
栞喃に連れられて洞窟を出れば、すでに狗族達のものだろうか、狼の遠吠えにも似た雄叫びが聞こえた。
「狗族の男共総出かい……!」
人間一人になんて無情な。
苛立たしげに呟く栞喃は周囲を睨みながら急ぎ足で前を行く。狗族達に見つからぬ為に、明かりは持っていなかった。代わりに夜目の利く栞喃が夏侯淵の腕を引いて、なるべく足場の安定した場所を選んで道を行く。
「多分あいつらは洞窟には入らずに、そのままあんたの匂いを追ってこっちに来る筈だ。だから、なるべく急ごう」
「分かった。……すまない、オレの不注意で迷惑をかける」
「いいや、あたしの注意が足りなかったんだ。まさか那鐘に見つかるなんて……あいつ、気配隠すの苦手だった筈なのに」
暫く歩けば、渓流に出た。
栞喃が一旦立ち止まって左右を見渡す。
「えーっと……渓流を東に行けば兌州側だった筈だ」
「こっち」と左手の大きな岩が積み上がった場所を上って行く。
夏侯淵もそれに倣って手をかけた。傷に負担がかかるが、気になる程ではなかった。
岩には苔が生えており、何度も足を滑らせた。その度に栞喃に助けられた。
登り切れば眼前に巨大な滝が現れた。月光に煌めく水飛沫を纏うその美しくも荘厳な姿に一瞬目を奪われる。
こんな状況でなければ、ゆっくりと見ていられただろうに、本当に口惜しい。
「滝の裏に洞窟がある。谷の外へはその洞窟に入らなきゃ行けないらしい」
「らしい?」
「狗族は一度も外に出たことが無いんだ。外に出る方法は口伝(くでん)で、定かかどうかも分からないけれど……やるしかないだろ」
今更うだうだやってたら捕まっちまう。
捕まったら殺される。
そう重く呟いた栞喃に、夏侯淵は再度謝った。
これで栞喃が夏侯淵を匿っていたことが明るみに出れば、叱られる程度では済まされぬ。
こうして共にいることがどれだけ危険なのか……それを考えるとここで別れた方が良いのではないか。
夏侯淵は一つ頷いて足を止め、栞喃を呼んだ。
「ここで良い。お前は戻れ」
「え?」
栞喃はきょとんと夏侯淵を振り返った。
「ここから先はオレ一人で大丈夫だ。だからお前は狗族に見つかる前に、早く戻るんだ」
「でも、滝の裏にある洞窟がどんな構造になっているのかは……」
「それでもお前が咎められるよりは増しだ。……今まで本当に世話になった。この恩は絶対に忘れない」
栞喃の手をぎゅっと握って離す。そうして身を翻すと、彼は滝に向かって駆け出した。
栞喃は彼に向かって手を伸ばして、すぐに下ろす。
泣きそうな顔をしたのは一瞬のこと。顔を引き締めて、彼女もまたきびすを返した。
――――けれど、その眼前に有り得ないモノが現れたのだ。
‡‡‡
「わあぁ!?」
思わず声を上げて栞喃は一歩後ろに退がった。
四つ足の化け物だ。
燃え盛る青炎が象ったそれは、赤い口がにたりと笑み、銀色の瞳がつり上がっている。
犬に見えなくもないが、恐ろしい化け物だ。
それは一体いつ栞喃の背後に現れたのか。気配も何も感じなかったのに。
それが一歩こちらに踏み出して来たのに、栞喃は咄嗟に腰から鉈(なた)を抜いて身構えた。
「栞喃! 屈め!!」
夏侯淵が鋭く叫んだ。
直後に栞喃が屈み込むと――――その一矢が化け物の眉間に突き刺さる。
それは断末魔の悲鳴を上げた。
耳障りなそれに思わず顔をしかめて耳を塞ぐ。
「馬鹿!! そいつから早く離れるんだ!!」
「分かってるっつの……!」
舌打ちして悶える化け物を見つめたまま立ち上がり、じりじりと距離を取る。
されど、不意に化け物が栞喃を捉え、吠えた。幾つもの声が折り重なったような声は空気を震わせた。栞喃も肌がびりびりとする。
刹那であった。
「え――――」
ぴしぴしと、足下で音。
見下ろした瞬間足場が――――。
崩れた。
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