拾肆
「ほんっとーにごめん!!」
顔の前でぱんっと手を合わせて栞喃は夏侯淵に謝罪した。
夏侯淵は頬に赤い花を咲かせて憮然と腕を組んでいる。
さっきからずっと謝っているのだが、一向に口を利いてくれない。加減をせずに叩いたのだから、それも仕方のないことだけれど。
栞喃は途方に暮れつつも、必死の体で謝罪を続けた。
「いや、あたしもあの時は驚いたって言うかさ……とにかくごめんってば!」
「……意識が飛びかけたぞ」
「え、マジで!?」
やっと返事が返ってきたかと思えば、自分でも思ってもみなかった事実。
下手をすれば、夏侯淵は昏倒するかも知れなかったと。
……そこまで力を込めてしまっていたのか、自分は!
栞喃は口角をひきつらせた。
「……本っ当にすいませんでした!」
先程よりも沈み低くなった声に、夏侯淵ははあと溜息をついた。
腕を解いて栞喃の頭にぽんと手を置き――――不意に片耳を摘んで上に思い切り引っ張り上げた。
「い――――だだだだだだだだだだだだぁっ!?」
千切れる!
千切れる!
大事な物が千切れる!
栞喃は夏侯淵の手を掴んで剥がそうとした。
けれど指先が触れる前に夏侯淵は耳を解放する。
栞喃は耳を押さえて夏侯淵に背を向けた。その場にうずくまって痛みに視界を滲ませた。
取れるかと思った。本気で。
「親父様にもされたこと無いのに……!」
「これぐらいの報復はしても良いだろう」
異性の耳や尻尾に触ることがどんな意味を持つのか知りもしないでこの男は!!
ならばさっさと教えてしまえば良いのだが、その時の反応を思うと、どうしても話したくない。
栞喃は溜息をついて座り込んだまま夏侯淵を振り返った。
目が合うと、呆れていた彼は寸陰固まってはっと目を逸らす。赤い花が強く自己主張する頬がこちらに向けられた。
「……それは、患部をあたしに見せつけて言外に責めてんの?」
「帰る」
「は?」
夏侯淵はぶっきらぼうに告げると、大股に歩き出した。
栞喃は突然のことに一瞬だけ呆気に取られたが、すぐに我に返って慌てて彼を追いかけた。
「ちょっと、夏侯淵! 待ってってば……!」
何をそんなに急ぐ必要があるのか。
夏侯淵の足取りは速かった。歩幅の差もあって小走りでなければ追いつけない。
栞喃は彼を見失わぬよう、そして周囲に狗族の気配が無いことを確認しながら、急いで彼を追いかけた。
‡‡‡
夏侯淵が洞窟に入る寸前に異変に気付いたのは、奇跡に近い。
夏侯淵の寝泊まりする吹き抜けまでは結構な距離があり、何か遭ってもそこに行くまでは気付きづらかった。
中から怒鳴り声が聞こえなければ、夏侯淵はそのまま吹き抜けに戻って何者かと鉢合わせになっていただろう。
中にいるのは狗族だ。この谷には、自分以外の人間も猫族もいないのだから。
夏侯淵は隣に立って舌打ちする栞喃を見下ろした
栞喃は何やら考え込んでいるようで、時折唇が声も無く動いている。
やがて、
「夏侯淵は、そっちの岩影の裏にある穴に入っておきな。その周辺にある花は匂いが強いから、誤魔化せると思う。中にいる奴はあたしが何とかしてくるから、あたしが戻って、良いと言うまで出てきては駄目だよ」
「……すまない」
「いや。むしろあたしが謝るべきだ。もっと離れた場所を捜しておくべきだった。ごめんね」
夏侯淵の頭を撫でて、栞喃は安心させるように柔和に微笑んだ。
栞喃には、とても申し訳ないと思っている。
自分のことを隠しながら夏侯淵の食事を持ってここと狗族の村を往復するのはキツいだろうし、何より友人達にも隠さなければならない。それにこちらのことにばかり時間を取られて満足に友人達と話したりなど出来ていないのではないか。
そろそろこの谷を出なければ――――そんな考えに至ったのも栞喃の負担を考えてのことだった。
万が一夏侯淵のことが狗族に知られた場合、栞喃だけでなく彼女の父栞乂も長として責任を問われてしまう。
そうなる前に早くに谷を出た方が良い。
洞窟の闇に呑み込まれていく栞喃を見送り、夏侯淵は改めてそう思った。
‡‡‡
吹き抜けにいたのは、蘭煕であった。
男衆だと思って身構えていた栞喃は面食らって、取り敢えず彼女の頭を叩いておいた。
「何であんたがここにいるんだい」
「だって嗅ぎ慣れない匂いがしたんだもん。どうしても気になっちゃって」
ぷうっと頬を膨らませる彼女に、栞喃は脱力する。
「あたしも気付いたから良かったけど、何か遭ったらどうするつもりだったの……」
「その時は……全力で逃げる!」
「あんたそんな足速かったっけ」
「に、人間よりは!」
「人間なんてこっちには来れないだろ」
「あう……でも、じゃあこの匂いとそこにある寝床みたいなのは何?」
指差したのは夏侯淵が寝泊まりする場所。
栞喃は背筋にひやりとしたモノを感じながら「さあ」と嘯(うそぶ)いた。
「って言うか、あたしはついさっき来たばかりなんだ。あんたみたいに調べてる訳じゃないし、分かる筈もないだろ」
「それもそっか。じゃあ、栞乂さんに相談した方が良いかな」
「それはあたしがやっとく。蘭煕はこのまま村に帰りな。後、親父様が動くなり、集会開くまで何も言っちゃ駄目だよ。血気盛んな奴らが下手なことしでかして村の中が乱れる事態は避けたいから」
もっともなことを言えば、蘭煕は疑うことも無く納得する。
「でも私も手伝おうか? 栞喃よりは目が良いし、何か見つけられるかも」
「良いよ。あんたの安全を取るのが先だ。旦那や子供の為にもね。それにもしもの時はあたしだって引き際は弁(わきま)えてる。ちゃんと逃げてくるさ」
栞喃の説得に、蘭煕は逡巡の後渋々と頷いた。
絶対に無理はするなと念を押して、一応何処かにいるかもしれないから周囲を警戒してみると言い残して早足に洞窟の出口へと向かっていった。
それを見送り、栞喃は腰に手を当てた。
「怖いんだったら、無茶しようとしなくて良いのに」
小心者の蘭煕は母親になってから、怯えを表に出さなくなった。おまけに昔ならしない無茶もしようとするから、旦那も栞喃もいつか大怪我をするのではないかと内心冷や冷やしている。
蘭煕の中で変化があったというのならそれは良いことだとは思う。
だが、栞喃としても親友が傷つくのは嫌だ。
彼女に荒々しいことも、怪我も似合わない。
「……さて、ちょっと時間を潰して夏侯淵の様子を見に行くか」
栞喃は薄く笑って、天を仰いだ。日差しに手を庇(ひさし)にして目を細める――――。
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