拾参
一週間の療養の間に、夏侯淵の傷も体力も驚く程に回復した。
さすがに早過ぎるような気もするが、それは口には出さなかった。夏侯淵本人が、気付いている筈であろうに、そのことについて何も言わない為である。
この七日間狗族の者に見つかることは無かったが、不可思議な視線、気配は昼夜を問わず栞喃について回った。
未だにそれが何なのか、分からない。夏侯淵に取り憑いたあの白い靄(もや)と何か関連しているのかも。
栞乂に相談する気も起きない。靄の時のように有耶無耶にされてしまうかもしれないと思うと、相談することが無駄なことのように感じたのだ。
それに、夏侯淵がもうすぐこの谷を出て行くのだと思うと、どうしてもそのことばかり考えて頭から離れない。
この一週間の中で、夏侯淵からは人間の世界について沢山の話を聞いた。
美しい自然――――風に踊る花々、隆々と聳(そび)える山並み。鳥達の歌、獣達の話し声。
人々の営み。温もり。
確かに狗族とは違うところが沢山あって、変わらないところも沢山あった。
話を聞いてしまうと知識だけでは物足りなくなるだろうとは、自分でも予想出来たことだ。
――――人間の世界に、行ってみたい。この目で見てみたい。この手で触れてみたい。
話を聞く度、その思いは強まるばかりであった。
「……そろそろ、この谷を出て行こうと思う」
自身で狩った兎を片手に、夏侯淵は栞喃に告げた。
彼はここ二日、勘を取り戻したいからと栞喃から弓を借りて自らも狩りに出るようになった。勿論、狗族の者に見つからぬように栞喃が付き添う。
だが何処が鈍っていると言うのか、今のところ一度も外していない。栞喃はそれが密かに悔しくて仕方がないとは、彼には知る由(よし)も無いだろう。
夏侯淵の言葉に一瞬だけ動作の停止した栞喃であったがすぐに我に返って夏侯淵に笑いかけた。矢をつがえる。
「そりゃ、何でまたいきなり?」
「いや……腕は確かに落ちているが旅をしながら取り戻せるだろうと思ったんだ。これ以上栞喃に負担をかける訳にはいかない」
「迷惑なんて、そんなん気にしなくて良いのに。拾った以上は拾った本人が責任持って面倒見るのが筋なんだからさ」
乾いた笑声を漏らしながら、栞喃は揶揄するように言う。
すると、彼はむっと眉根を寄せるのだ。
そうして栞喃に手を伸ばし――――避けられる。
最近、夏侯淵は栞喃にからかわれたり、彼女の言葉に不満を覚えたりすると報復として尻尾を掴んでくるようになった。
二度目は許してしまったが、三度目以降は回避している。意味を知らないとは言え、そうほいほいと尻尾に触れられては非常に困るし、耳以上に敏感なので変な声が出てしまうのだ。
夏侯淵は悔しそうに舌打ちした。
「何度も掴まれてたまるか!」
「じゃあからかうな。オレよりも年下のくせに」
「あんたあたしに面倒見られてる身分じゃないか! 年は関係ない!」
年下であることをからかわれているように思えて、栞喃は彼を睨んだ。それからぷいっと視線を逸らして弓を引く。狙いを定めて放つ。
――――刺さった!
捕らえたのは大きな猪だ。尻に深々と矢が突き刺さり血を吹き出しながら茂みから現れた。しっかりとした動作、敵意の滲んだ剣呑な丸い瞳に怯んだ光も苦痛も無く。
数回地面を片足で蹴って栞喃を睨み据える。
今度は脳天を狙わんと再び矢をつがえた。
が、彼女が放とうとした直前、右手からウリ坊が現れ意識を逸らされてしまう。
その間隙(かんげき)を猪は見逃さない。
駆け出す――――。
しまった!
「っ、栞喃!!」
「うわっ」
横手に飛び込もうとする寸前に夏侯淵が栞喃の腕を引く。
視界が急速に動いたと思えば、一気に暗くなった。
同時に感じたのは温もり。
同時に聞こえたのは鼓動。
今己がどんな状況にあるか――――それを理解した瞬間、栞喃の呼吸は止まった。
体温が急激に上昇していくのに、どうしようも無く動揺した。どうしてこうなっているのか、考えてもまともに考えられない。
早鐘を打つ胸が五月蠅い。鼓膜がもう一つ、胸にあるのではないかと思えてしまう程だ。
何故だろうか。
……分からない。
どうした、自分。
自問しても答えは出なかった。
いや、考えるよりも早く、夏侯淵の声が栞喃の思考を中断させてしまったのだ。
「……行ったか」
ほうと夏侯淵が真上で吐息を漏らす。その湿って温かい風は栞喃の髪を、耳を揺らす。ぴくり、耳が動いてしまったのは仕方がない。ああ、鳥肌まで立ってしまった。
夏侯淵の身体が離れると間にひゅっと冷えた風が通った。
それがほんの少しだけ惜しく思え、そんな思いに同じ疑問を抱くと同時に、無性に何処かに隠れたくなった。
「……おい、栞喃?」
「――――っ!!」
反応の無い栞喃を訝って夏侯淵が顔を覗き込んできた。
刹那である。
「ぬぅああぁぁぁぁ!!」
野太い悲鳴を上げて腕を振りかぶった。
乾いた音が風にさらわれる――――。
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