拾壱
「――――気にするな、だって?」
栞喃は怪訝にぐっと眉根を寄せた。
朝餉を済ませて釣りに出ようとする栞乂を呼び止め、夏侯淵に取り憑いた白い靄について相談したのはつい先程のこと。
栞乂はさほど考えもせず、ただ一言「気にするな」と答えた。
当然栞喃は承伏しかねた。それだけで意識しなくなる程切り替え良くは出来ていない。どうしてそんな答えになったのか、キツく問い質した。
しかし父はそれきり何も語らず。
栞喃の頭を撫でて大股に家を出ていってしまった。
父は何かを知っているのではないか。
栞喃はそう勘ぐった。
確証は無いが、彼がこんな話を冗談だとハナから決めつける性格ではない。否定するならその根拠を提示し、肯定するなら詳しい説明を添えてくれる。それに、説明する必要が無いからと理由を話さなくとも、問えばちゃんと言ってくれた。
ただ気にするなと言うことは、栞喃の記憶にある限りは無かった。
「……追いかけよう」
もっとキツく問い質せば、話してくれるかもしれない。
栞喃は食器を片付けること無く父を追って家を出た。
彼の姿はすぐに見つけられた。急いでいる様子も無かった。いつも通りの後ろ姿、歩み。
「親父様!」
追いかけると、栞乂は嘆息して足を止める。やおら栞喃を振り返った。
栞喃は栞乂の前で立ち止まると同時に彼を睨め上げた。
「気にするなと言った理由は?」
「そう思ったからだ。お前が気にするようなことではない」
「親父様は靄の正体を知ってるんだね? 何なんだい、あれは」
「お前が知る必要は無い」
「だから……!」
知る必要があるから、訊ねているんじゃないか!
無いからなんて、勝手に決められてはいそうですかと引き下がれない。
栞喃は眦をつり上げて父親に詰め寄った。
夏侯淵の命に関わることであるなら、正体を知って対処しなければならない。
それなのに、この父は何も教えようとはしてくれない。
父の無表情に苛立った。
荒い口調で栞乂を呼ぶと、彼は瞑目して背を向けた。
「親父様!」
「お前は何も知るな。好奇心は捨てろ。――――世はそんなに軽くも甘くもない。お前はつまらん夢を見ているだけだ」
小さな好奇心が、知ってはならないことを引き寄せてしまうこともある。
重厚な声で言った。
「は?」
知ってはならないこと?
それは何だ?
「ちょっと――――」
「お前は昔から何でも知りた過ぎる。いつか、死ぬぞ」
栞乂は歩き出す。
栞喃は彼の言葉を反芻(はんすう)した。
意味が、分からない。
好奇心が強すぎるのは欠点でもあると子供の頃からよく言われていたが、それが何故死に繋がるというのか。
彼は何を言いたいのか。
自分はただ靄のことを訊きたかっただけだ。
靄のことを知って、その対処を考えたかっただけだ。
それなのに、どうして好奇心に死ぬなんて話になった?
栞喃は栞乂をもう一度追おうとした。が、彼はもう答えてはくれないような気がして、足は半歩前に出ただけで止まってしまった。
靄について知ることは、悪いことなのだろうか――――?
「栞喃!」
「! ……那鐘」
栞乂の背中を茫然と見送る栞喃に駆け寄ったのは那鐘だ。今日は翡翠の彫り物は所持していない。
そのことに少しだけ安堵しながら、取り繕った笑顔を浮かべた。
「どうしたんだ? 栞乂さんと喧嘩なんて珍しいな」
「いや、喧嘩って程のことじゃないんだ。ただ、ちょっと知りたいことに親父様が答えてくれなくってさ」
那鐘も意外だったのか、目を丸くして栞乂の後ろ姿を見やった。
「珍しいな、あの人が疑問に答えてくれないなんて。俺の質問にもちゃんと答えてくれたのに」
「そうなんだよねえ……もう答えてくれそうにないから諦めるけどさ」
吐息を漏らす栞喃に、那鐘は腕組みして思案した。
「……気になるんだったら俺が調べてやろうか?」
「いや……いいや。こっちでもうちょい調べてみる。駄目だったら、相談させてもらうよ」
「ああ、あんまり無茶はするなよ」
「分かってる」
那鐘には相談出来ない。
彼は夏侯淵のことを知らないのだもの。知ってしまえば殺そうとするに違いない。彼も人間や猫族に対する偏見が強いから。
一応相談するとは言ったが、それは絶対にあってはならないことだ。
栞喃は家事をしなくてはならないからと那鐘と別れた。
足早に帰宅すると手早く家事を済ませる。
そうして狩りの道具を持って、その中に夏侯淵の食料を紛れ込ませて家を出た。
村を出ていつもの通りに獲物を探すも、やはりまだ栞乂の声が頭に残っていた。
好奇心が強すぎると知りたくもない事実を知って、死ぬ。
何を知るのだろう。
どうして死ぬのだろう。
分からないことがぐるぐると頭の中を巡り、狩りに全く集中出来ない。
ようやっと草葉の影に見つけた兎も、物音を立ててしまって逃げられてしまった。
栞喃はちっと舌打ちして、その場に座り込んだ。
深呼吸を二度程して髪を掻き上げた。
「……夏侯淵のところに行こう」
今の状態では兎一匹狩れやしない。
取り敢えず夏侯淵のもとで気を落ち着けてから望んだ方が良さそうだ。
長々と嘆息して栞喃は腰を上げた。
――――直後、振り返る。
しかしそこには誰もいない。
「……何なんだ、一体」
確かに気配を感じた筈なのに何もいない。
……もしかして、あの靄?
栞喃は常なる森をじっと睨み、ふっと身を翻した。
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