朝ぼらけ、未だ人気の無い村に戻ると、後ろから唐突に抱きつかれた。
 誰か、なんて振り返らずとも分かる。早起きで、栞喃に抱きつくのは一人しかいない。
 栞喃は苦笑混じりに口を開いた。


「蘭煕(らんき)」

「へへ。おはよ、栞喃」

「お早う」


 ふにゃり、ととろけそうな笑顔を浮かべて前に回り込んだ少女は、年上の親友である。
 童顔が最近の悩みであるらしい彼女は緩やかに波打つ亜麻色の髪を腰辺りまで垂らし、顔の横の髪を赤い紐で結んでいる。栞喃とは違ってゆったりとした服で、ほとんどの肌を隠すのは、自分の望む程に成長しない身体を周囲に悟られたくないからだ。

 栞喃は可愛らしいと思うのだけれど、本人曰く栞喃の今は亡き母親のように凛々しく在りたいとか。昔から、彼女は栞喃の母親を崇拝している節があったから分からないではないが、さすがにこの童顔と身長では――――本人には絶対に言えないけれど――――無理なような気がする。

 それに栞喃の母親は凛々しいんじゃなくて、手の付けられないじゃじゃ馬だ。
 普通に栞乂の身の丈程もある大岩なんて軽々と持ち上げてしまうし、強者と聞けば絶対に手合わせを強いてくるような性格だった。
 栞乂との出会いも、元々村一番の猛者だった栞乂に、彼女が成人したその日に決闘を申し込んできたことだ。
 それから栞乂ににべもなく断られ続け――――何故か途中から『結婚して!』となって栞乂を困らせていたいたらしい。これは良く宴会の笑い話になる。

 彼女が何を思って風習も何もかもを無視して求婚し出したのか、亡くなった今でも謎であった。

 蘭煕の頭を撫でてやれば、嬉しそうに頬が赤く染まる。こんな風だから、凛々しくなど無理だと思うのだ。


「今日は朝帰り? もしかして、逢い引きとか?」

「違う違う。昨日の夜、ちょっと散歩に行ってたら転んじまってね。小屋で手当してそのまま一晩過ごしたんだよ。ほらこれ」


 包帯を巻かれた腕を示せば、蘭煕はぎょっとする。悲鳴を上げそうだったので口を開いた瞬間手で塞いでやった。

 すると、彼女の丸い双眸が涙で滲んでいく。
 ああ……泣いた。


「〜〜〜〜っ」

「あーはいはい。大丈夫だから。良い歳して泣かない泣かない。あんた旦那いるんだから。旦那以外の前で泣かないの」

「うぅ……」


 これで、一歳になる娘がいるのだから驚きだ。
 娘の前ではしっかりした母親なのだが、昔から何かと栞喃に助けられていたことがあって、蘭煕は彼女の前ではどうも見た目以上に幼くなってしまう。
 勿論年上だからと栞喃のお姉さんっぽく振る舞おうとする意思は昔と変わらず今でも見られるが、空回りするので結局栞喃や彼女の夫が面倒を見ていた。

 栞喃の腕を、まるで割れ物でも触るかのように――――それこそ触れるか触れないかという微妙な加減で撫でて蘭煕は栞喃を見上げてくる。


「痛いよね?」

「今はそんなに痛くないよ。だから、そんな顔すんなっての」

「むうぅ……」


 むくれる蘭煕に栞喃の苦笑は更に濃くなる。
 後頭部を掻きながら、片眉を上げた。


「あんた一体幾つ?」

「……二十歳超えてます」

「子供は?」

「一歳の女の子が一人」

「じゃあしゃんとする!」

「わひゃ!!」


 背中をバシンと叩いてやった。
 情けない悲鳴が上がったが、いつものことである。

 痛そうに顔を歪めながらも、蘭煕は薄く笑った。


「……怪我、本当に大丈夫なら良いんだけど、無理はしないでね?」

「分かってるよ。それに、ただ広いだけで怪我自体大したことじゃないから、暫く動かさずにいれば大丈夫だって」

「栞喃だから心配なんだよ」


 どういう意味だ。
 こつんと小突くと、蘭煕は笑みを不満そうな顔に変えてじとりと栞喃を睨んできた。


「栞喃は自分に無頓着なんだから、もっと大事にした方が良いよ。栞乂さんもそう言ってるもの。と言うか、相談された」

「いつの間に」

「この前の満月の日に」


 「あまりお父さんを心配させちゃ駄目だからね」と栞喃の頭を撫でてくる蘭煕を、栞喃は何とも言えない顔で見下ろした。

 この前の満月の日って……確か栞喃と共にとある男女の婚儀に出た日だ。あの時は栞喃を一人先に帰らせて、新郎と飲んで帰ってきたのだったか。
 きっと新郎と別れた後にそのまま酔った勢いで蘭煕に相談しに行ったに違いない。
 栞乂は酒が入ると喋り上戸になる上、本音が漏れてしまうのだ。だから大体は自粛している。

 栞喃は迷惑をかけたと栞乂の代わりに謝罪した。
 蘭煕はふるふると首を横に振る。


「良いよ。栞乂さんも立場上、相談しづらいと思うし。いつもお世話になってるからお役に立てるんだったらむしろどんと来い! 特に栞喃について。……って、栞乂さんにその時伝えておいたから!」

「……あたし関連の相談をされるの、かなり嫌なんだけど」


 別に栞乂が相談することは別に構わない。
 だが、何も娘のことまで相談しなくても……。

 厳格なばかりではないとは、勿論娘である自分が一番分かっている。
 けども娘にも、狗族を束ねている父親に対してそれなりの理想像というのがあるということを知っていてもらいたい。


「まあ、良いや。とにかく、あたしは家に帰るよ」

「そっか。じゃあ、私はこれから畑に行ってくるから」


 狗族は村のすぐ側に大きな畑を持っている。家ごとにちゃんと平等に区切られていて、新しい世帯が出来るとまた新たに広げて分配する仕組みになっている。肥沃な土壌だから可能なことだ。


「気を付けてね」

「うん。栞乂さんによろしくね」

「ああ」


 手を振って走り出す親友を見送って、栞喃は吐息を漏らした。
 靄のことを訊く前に、あのことについて止めるように言っておこう。
 そう決めてきびすを返す。


――――そして、はっと右に向き直った。


「……っ!」


 気配を感じたのだ。
 村の人間のものじゃ、ない。もっともっと不安定な気配だった。
 栞喃が視線を向けた瞬間に消え去ったけれど……確かにいた。

 まさか、さっきの靄、とか?


「……どうなってんだい、最近のこの谷は」


 夏侯淵がここに来たから、か?
 栞喃は目を細め、親指の爪を噛んだ。



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