玖
さすがに、腕が痛む。
錯乱した夏侯淵に容赦無く抉られた腕は、包帯に巻かれた今もじくじくとした痛みに熱を持っている。
これは暫く水に濡らせないな。
苦笑しつつ、栞喃は視線を落とした。
そこには夏侯淵が健やかな寝息を立てている。
今は落ち着いている。
来た時のように狗族に対して暴言を吐くようなことは無い。
彼の様子が気がかりだったので栞喃も今日は一晩をここで明かすことにした。
あの白い靄は現れていない。しかし、油断は大敵だ。
いつ現れて夏侯淵に取り憑くかも分からない。
夏侯淵の額に書いた血の一文字はそのまま残しておいた方が良さそうだ。消えかかったらばまた塗り直せば良い。
狗族が軽蔑する人間に狗族の血を塗りつけるなんて本当は許されないことだけれど、夏侯淵の怪我が完治するまでの期間だけだ。バレなければ大丈夫。
栞喃は夏侯淵の頭をさらりと撫でた。
寝顔が無防備で可愛らしいのは、生き物共通である。
彼の寝顔は、とても武将であるなどとは思えない。
人の命で、手を汚しては洗っていると、到底思えない。
栞喃は細く吐息を漏らした。
「あんたが帰ったら、もう人間はこの谷には来やしないんだろうね」
人間の世界に興味がある。
けれども、栞乂から聞いてきたそれは、人間の汚い部分ばかりだ。狗族にだって汚い部分は確かに存在するのに、栞乂は人間には善の部分が無いのだと決めつけてしまっているのだ。
善悪は紙一重の対極だ。どの存在にも等しく備えられている。
それを分かっているだろうに、まるで理解したくないとばかりに無いものと決めつける。
狗族が強固に人間達の善を拒む理由は、やはり狗族への仕打ちの所為か。
人間は何を思って英雄を化け物扱いし狗族の祖、狡を追いやったのか――――彼らを束ねる組織の権威を守る為だけにどうしてそのようなことをしたのか理解出来ないのだ。
夏侯淵に人間の世界を訊いたら、善を知れる。
人間の存在は決して汚いばかりではないと分かる。
夏侯淵がこの谷を去る前に少しだけでも聞いておきたいものだ。
「本当は猫族も見てみたいところだけれど、さすがにそれは無理か」
猫族は猫の耳だけが生えた半妖だと言う。
狗族とは全く違う呪われた英雄の一族。
この谷を出ることは禁じられているが狡と共に金眼を滅ぼした彼らと、一度で良いから見(まみ)えてみたい。
そう思うのは、狗族の中でも栞喃だけだった。皆、人間と同様に猫族を軽んじている。卑しい者達と忌み嫌っている。
その辺り、狗族も人間と変わらない部分があるように思えるのだが、そんなことを言ったら怒られるだけでは済まされない。
一晩吊されてしまうかなと苦笑を浮かべつつ、彼女は壁に寄りかかった。
そして、瞼を下ろす――――。
‡‡‡
ふわふわとした、まるで真綿にくるまれた心地良い感覚に浸っていた栞喃は、ふと尻に電撃のような衝撃を感じて一気に覚醒した。
文字通り飛び上がってその場から離れると、青年の声が上がる。
「ひぎゃぁ!!」
「うわぁ!?」
いつの間にか自分は横になっていたらしい。
――――いやそれよりも!!
尻尾を掴んで壁に背中をぴったりと張り付けると、夏侯淵が驚いたように栞喃を凝視していた。彼の右手が何かを掴んでいたような形で掲げられている。
ついさっきまで――――その手に己の尻尾があったのだ!
ざっと青ざめ、かと思いきや顔が赤くなっていく。
夏侯淵は不可解そうに首を傾げた。
「栞喃?」
「ちょ、あんた、い、今、あたしのしっ、尻尾……!」
「は? ……ああ、顔に当たって擽(くすぐ)ったかったんだ」
何か悪いことだったか?
夏侯淵の言葉に、栞喃は堅く強ばった声で「何でもない」と異様に繰り返す。
……そうだ、夏侯淵は人間だ。
狗族にとって尻尾を触るという行為の意味が分かる筈もないのだ。
そう思うと混乱した頭も少しだけ落ち着く。けれども、ばくばくと高鳴る胸だけはどうにも出来なかった。
夏侯淵から離れた場所に胡座(あぐら)を掻き、深呼吸を二度。
「と、取り敢えず、尻尾は敏感だから止めとくれ……吃驚(びっくり)しすぎて、死ぬ」
「そうか。すまない。しかし、本当に手触りが良いんだな」
そりゃそうだ。
一応、良い女良い男の基準には毛並みも含まれる。手入れは男女共に絶対に欠かさない。
栞喃は壁に背中を貼り付けたまま立ち上がり、「ご飯用意してくるから!」と駆け出した。
それを、夏侯淵が慌てて呼び止める。
「栞喃!」
ぎくりと立ち止まって振り返れば、夏侯淵は僅かに眦を下げて、小さく謝罪してきた。
「昨日は、すまなかった。腕は大丈夫か?」
「う、う腕っ? ……あ、ああ。大丈夫だよ。たかだか肉抉られたくらいだ、別に気にすることでもないよ」
夏侯淵に言われてやっと気付く程度だ。痛みは寝る前よりも随分と落ち着いていた。これならば村に帰っても、腕を掴まれない限り大したことは無いと言い張れそうだ。
「あんたは何も気にしなくて良いから、大人しく療養に努めときなって」
微笑んで、栞喃は再び走り出す。
洞窟を一気に抜け、朝日に照らされる森の中に出た。草花に生じた露がきらきらと輝き、落下しては地面に染みていく。
清浄な空気を大きく吸って、吐き出した。
そこで彼女は己の尻尾を握り、見下ろした。
「まさか、人間の男に触られるとは……」
今まで、狗族の誰にも許したことは無かったのに。
はあと物憂げに嘆息する彼女の頬は、しかしほんのりと赤らんでいた。
「……帰ろう。親父様が腹を空かせて待ってる」
それに、あの靄のことも相談しなければならない。
思考を切り替えようとして、栞喃は己の顔を両手でぱしんと叩いた。
「うし!」
大きく頷いて、彼女は地を蹴る。
身体にぶつかった草花が、煌めく露を弾き飛ばした。
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