目覚めてすぐ、指に違和感があった。
 何か爪に詰まっているような、若干の痛みがある。
 自分の手に何があるのかと思って身を起こした夏侯淵は、己の手を見て愕然とした。


「……なん、だ、これ……!」


 己の指の、爪との間に挟まった物――――それは、肉だ。
 小指以外の四本に、抉り取ったかのようにぎっちりと詰まっており、指先は赤黒く染まっていた。
 これは誰の血肉だろう……考えて、おののいた。

 脳裏に浮かんだのは一人の少女だ。この洞窟に来るのは彼女しかいないのだから、彼女以外には考えられない。
 どうして……オレは何をした?


 記憶を手繰ろうとした瞬間、耳鳴りがした。


 それと同時に、思い出す。


『オレに近付くな! 汚らわしい狗族如きが!!』



「あ……!」


 そうだ、オレは栞喃に、あんなこと、を……。
 ざっと全身から血の気が引いた。

 何てことを言ってしまったのだ、自分は!
 あの時の自分――――言わされているかのような感覚だった。
 意識がありながら、霞がかっていて……操られているようなおぞましい心地。

 弾かれたように顔を上げて周りを見渡すも、栞喃の姿は何処にも見受けられない。

 どうしよう。
 栞喃を傷つけていたとしたら。
 栞喃は恩人だ。
 自分は恩人に暴言を吐いたのだ。

 人として、許されることではない。

 手が震えた。
 咽が震えた。
 不安が、後悔が怒濤のように胸に攻め寄せる。
 栞喃が来たら、どう言えば良いのか分からない。会わせる顔が無い。

 どうしよう――――そればかりが頭の中を埋め尽くした。

 栞喃は、自分を嫌っただろうか。
 ここに戻ってきた時、自分を詰(なじ)るのだろうか。

 ……怖い。
 夏侯淵は頭を抱えた。
 歯軋りして呻くと、じゃり、と遠くで小石を擦るような音がした。

 栞喃が帰ってきたのだと顔を上げると、差し込む光にその姿が入り込んでくる。

 ……やはり、栞喃だ。
 左腕を包帯で覆っている。あそこを、夏侯淵が爪で引っかいてしまったのだろう。
 どくりと心臓が跳ね上がった。


「栞喃……」

「夏侯淵。起きたのかい」


 栞喃の笑顔に、胸が強烈な痛みを訴えた。
 何故笑う。
 いつものような、笑顔を浮かべるんだ。


 十三支の娘の笑顔が、それに重なる。


 瞬間、夏侯淵は悲鳴のような声を上げた。
 頭を抱えてその場にうずくまる。

 栞喃は慌てて夏侯淵に駆け寄った。


「夏侯淵!? どうしたんだい! しっかりしなってば!」


 栞喃が背中を撫でて呼びかけた。
 しかし、夏侯淵は錯乱したようになっていて、彼女の身体を押し飛ばした。

 栞喃は尻餅をついて小さく呻いた。


「ちょ……夏侯淵」

「……して、どうしてオレを責めない!?」


 十三支の娘のように、罵られても気にしていないかのように現れて――――!
 夏侯淵はがなるように言う。

 十三支の娘もそうだった。
 ずっと、ずっと。
 夏侯惇だけでなく夏侯淵とも仲良くやろうとして、どんなに罵られても、詰られても歩み寄ろうとしてきた。

 傷ついていない筈はない。
 だのに、何故!


「夏侯淵」


 苛立ち混じりに呟かれた瞬間、夏侯淵の視界に火花が散った。同時に、鈍痛。
 頭突きされたのだと、やや遅れて気が付いた。

 その痛みで我に返った夏侯淵は茫然として栞喃を見つめた。


「まったく……」


 仕方がないとでも言わんばかりに夏侯淵の頭を胸に抱き寄せた。


「な……」

「そんなん、別に気にしてないよ。親父様から、人間から見たあたしらについては聞いていたし。あんなこと言われたからって、別に気にしやしない。それに、あんたがこんな状況で精神が不安定だってのもちゃんと分かってるし」


 栞喃は優しく夏侯淵の頭を撫でる。

 その感触が、まるで暴走した心が熱を冷ましながらとろけていくようで、不思議ととても心地良い。全身から力が抜けていった。
 栞喃の香りもまた、夏侯淵の精神を落ち着かせた。
 彼女の身体に身を任せていると、栞喃は手を止めた。


「あんたがあたしを卑しいと思うのなら、それで良いさ。傷が治ればすぐに、この谷から出て行けば良い」


 けれど、今はまだ我慢しておきな。
 今の身体では、きっと保たないだろうから。
 優しく、労るように穏やかな声音でかけて栞喃は夏侯淵を諭す。

 彼女の声は、夏侯淵の頭に染み渡った。それに反感を覚える自分はおらず。
 そっと栞喃の背中に片手を回した。勿論肉片が挟まっていない方の手だ。力を加えることは怖くて、微かに触れるだけに留まった。


「……す、まなかった」


 絞り出すように漏らした謝罪に、栞喃はまた彼の頭を撫でた。

 まるで子供をあやすようなそれに、しかし計り知れぬ安堵を覚えた彼は、ふと泣きなくなる。
 けれどもそれは栞喃の迷惑になるからと必死に止めた。

 栞喃は優しい娘である。
 器が大きすぎる。
 自分の卑小さが浮き立ってしまう程に、彼女はよく出来ているのだ。

 このまま彼女の側にいて良いものか――――。
 そう思うと、何故か胸の中がぞわりと不快にざわめいた。


「……っ」

「ん?」


 一瞬身体が強ばってしまったのが分かってしまったのか、栞喃が夏侯淵を呼ぶ。


「どうかしたかい」

「……いや」


 夏侯淵がゆっくりと身を離すと、栞喃は薄く笑った。


「今日はお互い飯無しだね。ま、そんなんたまにあるから構わないけどさ」


 彼女の茶化すような声はしかし、夏侯淵の胸に大きな痼(しこ)りを残した。



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