※注意



「哀れな人の子だ」


 誰かの声が聞こえる。

 ふわふわとたゆたうような感覚。意識は朧だった。
 けれどもこの声だけはいやにはっきり聞こえて。

 誰だ?
 聞き覚えなんて全く無い。


「培われた価値観は、そう簡単には変えられぬ。それを変えぬか、変えざるを得ぬかでお前の未来(さき)も変わろう。怯えて変えぬもお前の道。恩義を取って変えるもお前の道だ」


 何を言っているのか分からない。
 価値観? それは何の価値観だ。
 何を指して、お前は何を言っている?
 問いかけようにも口は動かず。


「だが、哀れで愚かな人の子よ。あの娘にも卑しいと言えるのか? 恩人を汚らわしいと詰(なじ)れるか?」


 あの娘、とは誰のことだろうか。
 けれど何故かその言葉は胸に突き刺さる。


「気が変わった。更に一つお前に《ちょっかい》を出してみようか」


 その時、己は何を思うだろうな。
 くすくすと笑声を漏らした。

 すると不意に、全身が熱くなった。
 頭の中まで浸透していくこれは、何だろう。
 どうしてか、その熱に意識を奪われていくような気がする。

 止めろ、と声は出ない。出せない。


「さあ、お前はそれを言った時、何を思うだろうか」


 それが楽しみだよ。


――――奇異なことである。
 その笑声は、何処かで聞いたような気がした。



‡‡‡




 栞喃が夕餉を持って洞窟を訪れると、夏侯淵は何故か栞喃を睨みつけた。
 不審に思って近付けば――――。


 ぱん、と。


 食事を持っていた手を払われてしまった。
 驚く間も無く料理の汁が栞喃の身体に、肌にかかる。


「あつっ!」


 声と共に器が地面に落ちる音。


「ちょっ……夏侯淵、何だ――――」

「オレに近付くな!」


 汚らわしい狗族如きが!!
 がなるように言い放ち、彼はよろよろと立ち上がった。

 栞喃は訳も分からず茫然と彼を見上げた。
 そして――――はたと気が付くのだ。
 夏侯淵の瞳が、虚ろなことに。

 栞喃のいない間に彼に何が遭ったのかは分からないが、今の彼が正気でないことは確かだ。

 栞喃は腰に差した短剣を手にしたまま、夏侯淵の気迫を受け止め強く見据えた。

 ……どうしようか。
 一発ぶん殴って昏倒させ様子を見ようか。
 いや、気を失わない程度に殴って正気に戻そうか。
 それとも男の急所を蹴り上げて――――。


「……!?」


 瞠目。
 ……靄(もや)だ。
 夏侯淵の後ろに何か靄が見える!

 あの靄は何だろう。
 白いそれは夏侯淵の背後に寄り添うように在って、とても自然のものとは思えなかった。
 あんなもの――――今まで見たことが無い。
 警戒しつつ栞喃は腰を低く沈めた。

 元々、この狗族の住む谷底には怪奇現象が良く起こる。狗族は皆、霊的なものに対する抗体のようなものを持っており、その現象の影響を受けることはほとんど無い。また、それが作用し、現象を引き起こす悪霊の類いを目にすることも然(しか)りである。

 だが、夏侯淵はただの人間だ。
 彼の急変は、あの靄の影響を受けたからなのかもしれない。
 この地に住む霊に取り憑かれてしまうと、精神が圧迫されて、最悪気が狂ってしまう。そう、栞乂から訊いていた。

 下唇を噛み、栞喃はふと己の親指を噛んだ。
 一か八か、やってみよう。
 彼に通用するかは分からないが、影響を受けているのであれば栞喃にはそうする以外に手立てが思い付かなかった。

 栞喃は犬歯で親指の皮を裂いた。
 そして彼に肉迫する。

 虚ろながらに侮蔑がくっきりと浮かんだ双眸が栞喃を捉えて腕を振った。

 避ける。
 そして血の滲む親指を額に当て、横一文字に塗りつけた。

 狗族の赤子は、抗体が付いていない。その為、親が己の血を子の額に真一文字に塗りつけるのだ。

 夏侯淵にも、その効果があれば良いのだが……。
 即座に彼から距離を取って、様子を窺えば、彼は突如として頭を抱えた。激しい頭痛に襲われたらしく、苦しげに呻いてその場に膝をつく。
 栞喃は短刀を収め夏侯淵に駆け寄った。屈んで彼の顔を覗き込んだ。


「夏侯淵、しっかりしなって! 何が遭って――――」

「さ、わるなぁぁ!!」


 がりっ。
 夏侯淵が栞喃の腕に爪を立て、彼女の皮膚を抉り取った。
 五本の赤くて太い線が走り、赤くて細い線が違う方向に垂れていく。ぽたりと地面に落ちた。

 栞喃は痛みに呻いた。
 が、未だ夏侯淵の指が肉をしっかりと抉っており、無理矢理離そうとすれば更にその線が伸びてしまうだろう。
 唸るような彼の声が止むまで彼女は、そのままの状態を維持しつつ彼が正気に戻るのを待った。

 夏侯淵は、未だ呻き続けている。
 狗族がどうだの、十三支がどうだの、兄者がどうだの――――譫言(うわごと)のように呟いている。

 しかし、やがて靄が消える。
 すると彼は事切れたかのように力を失い栞喃にもたれ掛かるのだ。
 栞喃は慌てて夏侯淵を横たえて顔色を窺った。
 安堵に吐息を漏らす。


「……気絶しただけか」


 良かった。
 薄く笑って彼女は腕を押さえつつその場を離れる。
 深く抉られた己の腕。
 自宅から持ってきた治療の道具は、夏侯淵だけに使用するからとさほど多くは置いていない。

 一旦、小屋に行って手当してくるか。
 さっさと済ませて帰れば、夏侯淵も目を覚まさないだろう。彼の爪に残った皮膚を取り除くなら、帰ってから。
 栞喃は念の為、夏侯淵の額に再び血を塗りつけてから洞窟を後にした。

 それにしてもあの靄は一体何だったのだろうか。夏侯淵の様子がおかしかったのはその所為だとは思うが……。
 ここに来た時、栞喃は何も感じなかった。見たことは無いけれど、悪霊だとか、そんな類のものではないとは思う。
 夏侯淵にあんなものが憑くなんて……。

 考えても、栞喃には分からない。
 栞乂なら分かるだろうか。
 夏侯淵が落ち着いた後にでも、訊いてみよう。

 栞喃は一つ頷くと、その場から駆け出した。



 その後ろで、白い靄が人の形を象っているとも知らずに――――。



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