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 昨日の夜屋敷の池で溺れかけた幽谷はまだ目覚めない。

 関羽は幽谷の私室を訪れていた。
 寝台に腰掛け、昏々と眠る彼女の青ざめた顔を、眦を下げて見下ろす。

 今はもう日が沈んでいる。
 なのに、彼女は目覚める気配を見せないのだ。
 曹操には、それとなく過労と心労で倒れたらしいと誤魔化しておいたけれど、多分彼は信じていないだろう。元々上手くない関羽の嘘など、簡単に見抜かれてしまう。


「幽谷のお姉さん、大丈夫?」


 さしもの泉沈も、彼女が一向に目覚めないことが不安なのだろう。沈んだ面持ちで関羽の隣に腰掛けて幽谷の顔を覗き込む。

 そんな彼に「大丈夫」と笑いかけ、そっと頭を撫でた。


「幽谷、病気になると、こういう風に昏睡してしまうの。だから、きっと身体が良くなったら起きるわ」

「……ん」


 目を細めて泉沈は関羽の肩に顔をすり寄せてくる。いつもとは違う様子で戸惑いはあるが、まだ十四らしい彼もやはり子供なのだ。同じ存在に会えたのに、いなくなってしまうかもと思ってのことなのかもしれない。慰めるようにそっと抱き寄せた。

 暫くそのままでいると、廊下で足音がして泉沈が関羽から離れて立ち上がった。

 足音は扉の前で止んだ。


『女、いるか』

「その声……夏侯惇ね。どうしたの?」


 少々、驚いた。
 彼は絶対に自分達の部屋には近付かないとばかり思っていたのに。
 関羽は扉の前に立った。扉を開けようとすると、待ったがかかる。

 夏侯惇は関羽に出てくるように言った。


「どうして?」

『お前に話がある。早くしろ』


 関羽は訝った。彼が、自分に話?


「関羽のお姉さん?」

「……泉沈。わたしが戻ってくるまで、幽谷を見ていて」

「え? うん。……何処に行くの?」


 素直に頷いた彼は、しかし不安そうに眉尻を下げる。


「分からないわ、けど、すぐに戻ってくるから。それまで、この部屋には絶対に誰も入れては駄目よ」

「……はーい」


 泉沈の頭を撫でて、関羽は扉を開けた。

 夏侯惇は欄干に寄りかかって彼女を待っていた。彼女を一瞥すると、「ついてこい」と歩き出す。泉沈に聞かれたくないのだろうか。今日だけのことかもしれないが、彼はやけに泉沈を警戒しているように見受けられた。

 幽谷が溺れた池のある中庭に着くと、その欄干の前に夏侯惇は立つ。


「どうしたの? あなたがわたしに用があるなんて……」

「貴様に訊きたいことがある。四凶についてだ」

「幽谷について?」


 また、昨日のことを訊かれるのだろうか。
 だがそうしたところで関羽にも分からないのだから答えようが無い。
 それを言うと、彼はそうでないと返した。


「あれの右の上腕……何か張り付いていないか?」

「えっ?」


 どきり。
 心臓が跳ね上がった。
 どうして夏侯惇がそれを知っているの?
 口から出かけた心の言葉は直前に呑み込んだ。混乱を悟られないよう、必死に取り繕う。


「な、何かって、どういうこと?」

「分からん。だが堅く凹凸のある物だ。着替えさせた時、見なかったか?」


 関羽は首を左右に振った。


「……いいえ、気になる物は何も無かったわ。気の所為ではないの?」


 夏侯惇は黙り込む。

 関羽は彼を見、「話はそれだけ?」と背中を向けた。


「幽谷と泉沈の側にいてあげたいの。話が終わったなら、わたしは戻るわ」

「待て。……本当に何も無かったんだな?」


 振り返れば、猜疑(さいぎ)に光る鋭い眼差しに射抜かれる。
 関羽は唇を引き結んで深く頷いた。


「ええ、本当よ」

「……そうか。ならばもう良い」


 関羽から視線を外すと、夏侯惇は大股にその場を立ち去っていった。

 その後ろ姿が見えなくなるのを待って、関羽は壁に手を突き大仰に吐息を漏らした。駄目だ、心臓がばくばくと五月蠅い。

 どうして夏侯惇が幽谷の鱗のことを知っているの……?
 幽谷が話した……なんて、ある訳ないわよね。夏侯惇に話すくらいなら、自分達に隠そうとする筈がないもの。
 幽谷が目覚めたら、このことは話さないと。

 一度深呼吸して、関羽は早足に幽谷の部屋へ戻った。



‡‡‡




 扉を開けると、泉沈は寝台に腰掛けたまま、足をぷらぷらと動かしていた。関羽に気付くと、ぴんと耳を立たせた。


「お帰りー、何話してたの?」

「幽谷のことよ。まだ目覚めないのかって。曹操の害にならないか警戒しているのね」

「……あのつり目のお兄さん、僕嫌いだなー。僕達のこと四霊って呼んでくれないんだもん」


 四凶じゃないって何度も教えてあげてるのに、やっぱり人間って馬鹿なんだね。
 拗ねたように唇を尖らせて泉沈はぼやく。

 関羽は苦笑した。


「仕方ないわ。大昔からそれが人間の世界の《常識》だったんだもの。わたしたちは分かっているから、そんな顔をしないで?」

「……ぶー」


 彼は頬を膨らませた。


「……そうだわ。気になっていたんだけど、四霊っていうのはどうして生まれるの? 泉沈は知ってる?」


 話を変えると、泉沈の口の中からぷすっと空気が抜ける。


「うん。僕の面倒を見てくれた人が教えてくれた。四霊はね、《大事な大事なお役目》を果たす為に天帝が遣わしているんだって。本来は仙人と等しいんだって、言ってたよ」

「え、仙人?」


 仙人なんて、本当にいるの?
 関羽は眉根を寄せた。

 仙人なんて、絵空事の存在だ。
 そんなものが本当にいるの?


「泉沈はそれを信じてるの?」

「さあ、どうだろうねー」


 泉沈は足をまた動かしながらへらりと笑った。
 その笑顔からは、何も読みとれない。



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