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 夏侯惇が関羽を連れてきた時には、幽谷は階段でぐったりとしていた。青ざめた顔には生気が無く、関羽が悲鳴を上げた程だ。
 息をしていることを確認し、関羽は大仰に安堵した。


「良かった……」


 そこで、夏侯惇は関羽に彼女に身に起こったことを話す。そして、それが何かを訊ねた。彼女ならば、何か知っているかもしれない。
 もし、それが曹操の身にも害を及ぼすものであるなら、最悪の事態になる前に彼女を始末する必要があった。
 正直なところ、その危惧を否定して欲しいところではあったけれど。

 が、関羽の答えは夏侯惇の期待に応えるものではなく。


「分からないわ」


 首を横に振って、彼女は幽谷の頬を撫でた。

 夏侯惇は黙り込んだ。
 これ以上問い詰めても意味は無い。そう判断し、幽谷の身体を抱き上げる。


「あ、夏侯惇」

「部屋は何処だ」

「え?」

「貴様では運べないだろう。ここに放置するにも、不吉極まり無い上、邪魔だ」


 急病人に、そんな言い方しなくても良いじゃない。
 関羽はぼそりと呟いたが、夏侯惇に睨まれて口を噤んだ。

 それ以上何も言わずに、彼女らにあてがわれた部屋へと案内する。幽谷は関羽の隣の部屋だ。そのまた隣が、泉沈の部屋。
 関羽が扉を開けると、夏侯惇は彼女の身体を寝台に寝かせた。


「ありがとう。後はわたしがするから」

「……ああ」


 幽谷の顔を一瞥した彼は、そのまま退室する。

 彼の足音が聞こえなくなるのを確認し、関羽は寝台に腰掛けて幽谷の衣服を脱がしていく。びっしょりと濡れた衣服はとても重い。まして、幽谷は外套の裏に沢山の暗器を仕込んでいるから、その重さもある。


「札は……濡れていない?」


 暗器を全て取り除いていると、懐に入っていた筈の札は濡れていない。
 これも、方術の一種なのかしら……と束を置く。
 身体を拭いて寝衣に着替えさせつつ、右の上腕を確認した。


「あっ」


 声を漏らす。
 鱗が、広がっているのだ。

 思わずそこを撫で、堅い感触に戦(おのの)いた。


「夏侯惇の言っていたもの、やっぱりあの時と同じ手だったんだわ……!」


 幽谷をこれ以上水に近付かせるのは危険だ。鱗が広がってしまったら……恐ろしいことになりそうな気がする。
 漠然とした不安に駆られ、関羽は早急に寝衣を着せた。

 目覚めた時、彼女が知ったらどう思うだろう――――そう思うと、胸が酷く締め付けられた。



‡‡‡




「あ」

「貴様は……!」


 回廊でかち合った少年に夏侯惇は瞠目した。

 ぴんと立った黒い猫耳に黒と金の色違いの目――――昼間に見かけた十三支の四凶ではないか!
 咄嗟に剣を抜いて身構えた。


「貴様! 何故この屋敷に……!!」

「だって幽谷のお姉さん達がお世話になってるんだもん」


 少年は後頭部に両手を当てて、怖がる素振りも無く答える。


「あの女性はどうした」

「え、何のこと?」

「あの盲目の女性だ! 一緒に兌州を出たのではなかったのか」

「あ……ああ! あの人か。途中で別れたよ」


 ぽんと掌に拳を落とした後、彼はあっけらかんと答えた。
 理由を問えば、十三支であり四凶であると人間が騒いだから、一緒にいられなくなったのだそうだ。

 何事も無かったかのようにさらりとした態度に、夏侯惇は眉根を寄せた。


「それで、別れた後二人に会ったということか」

「え? 違う違う。最初から、僕は幽谷のお姉さんと一緒にいたんだよ。あの女性は、面白かったからちょっとの間一緒にいただけ。……ていうか、少し前に洞穴で僕と会ったじゃん」

「洞穴……曹操様をお助けした時か?」


 こんな少年などいただろうか?
 夏侯惇は警戒を解かぬままに記憶を手繰った。
 あの場にいた人間、十三支、四凶を順に思い出し……はっとした。
 一人、見慣れぬ姿があったような気がする。だが、はっきりとは思い出せない。

 彼だったような気もするし、彼ではなかったのではないかと言われれば、簡単にぐらつく。


「注意力散漫だねぇ。僕、気配も何も消してなかったのに。それじゃあ、簡単に首取れちゃうよ」


 右手の指をピンと伸ばし首の前で左から右へ引いてみせる。小馬鹿にしきった笑みだった。

 それに、神経を逆撫でされる。
 夏侯惇は舌打ちして剣の切っ先を彼の咽に突きつけた。

 しかし、少年の笑顔は崩れない。笑声が漏れた。

 得体の知れない子供だ。
 非常に気味が悪い。
 少年を睨みつけ、夏侯惇は切っ先で咽を裂いた。


「きゃー、痛いー」


 間延びした声で、まるで冗談を言い合っているかのようだ。夏侯惇が本気で彼を傷つけようとしていることが分からぬでもあるまいに、彼は不気味な程に笑みを浮かべている。
 彼からは、剣呑なモノを感じた。


「貴様……俺が何をしようとしているのか分からないのか?」

「は? 馬鹿じゃない? お兄さん僕を殺そうとしてるんでしょ? この状況で、あんたの目を見て分からないなんておかしいでしょ――――って、答えて欲しいんだよね? でも実際はただの脅し」


 残念だけど、頭の悪いお兄さんに僕は殺せないよ。
 直後である。

 少年の身体が揺らいだ。倒れたのでも、彼が動いたのでもない。ぐにゃり、と陽炎の如く歪んだのだ。

 夏侯惇は愕然とした。方術の類であることは分かったが、それでもこの突然の現象に戸惑いを覚えずにはいられなかった。幽谷という四凶でも、こんなことは今までしなかった筈だ。


「そうそう、僕達は四凶じゃなくて四霊。十三支じゃなくて猫族。主も主なら、その部下も馬鹿なんだね」


 揺らぎ乱れて本来の形を失った少年は、笑声を残してその場から消えていった。

 夏侯惇は凝然と立ち尽くした。
 彼は、幽谷とは明らかに違う。
 同じ四凶ではあるが、確かに異質な存在である。

 はっきりと、そう感じた。



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