13
四凶がいるかいないか、訊ねたことに大した意味は無い。単純に気になったからだ。
十三支の女と別れた後、夏侯惇は夏侯淵を後ろに連れて回廊を歩いていた。
「兄者、四凶を捜すのか?」
「……」
「兄者?」
夏侯淵の問いに、彼は足を止めた。思案するように瞑目した。
怪訝に思う夏侯淵が話しかけるが、彼は何も答えない。
やがて開眼すると、夏侯淵を振り返った。
「夏侯淵。お前は先に戻っていろ。俺は少し用が出来た」
「え? あ、兄者!」
足早に彼と別れる。
夏侯淵が呼んでも彼は応(いら)えを返さなかった。
夜の屋敷はほとんど誰も通らない。たまに女官や文官が通る程度だ。戦でも無ければ、慌ただしくなどなりはしない。
灯台に照らされるだけの廊下を歩いていると、ふと中庭の池の前に見慣れた後ろ姿を見つけた。
四凶だ。
何故か慎重な足運びで池に近付いている。
夏侯惇は訝って中庭に降りる階段へと早足に向かった。
四凶は池の際に立つと覗き込むように屈む。
直後――――池の中から何かが突き出てきたではないか!
「なっ!?」
四凶は仰け反って回避する。だがそれは彼女を追いその首を捕らえると一気に池の中に引きずり込んだ。
「四凶!」
夏侯惇は池に駆け寄った。もがく四凶の腰に腕を回そうとして何かに弾かれる。見えない衝撃は手袋を引き裂いて皮膚を抉った。
痛みに片目を眇めるが、四凶の身体が抵抗を失ったことにはっと腕を伸ばす。今度は腕に幾つもの裂傷が走ったが構わずに腕を回し華奢な身体を引き上げた。
ぐったりとして動かない彼女の身体を抱え、瞠目した。
顔を埋め尽くすかのように浮かんだ、夏侯惇には読めない不可思議な文字のようなもの。それは淡く発光すると徐々に消えて無くなった。
青ざめた四凶の顔に戻る。
「今のは……」
頬を触ろうとした瞬間、四凶が激しく咳き込んだ。夏侯惇の腕から身を捩って逃れ、石畳に這い蹲(つくば)るようにして苦しげに咳を繰り返す。
夏侯惇はその背を撫でた。そして、自身の腕が思った以上に酷く負傷していることに気が付く。自覚すると、痛みも遅れて感じる。
「げほっ……う……っ」
落ち着くと、四凶は気怠そうに起き上がり、夏侯惇を見上げた。余程苦しかったのか、涙で潤んでしまっている。
「……あなたは、」
「今のは何だ」
「……分かりません。いきなり引きずり込まれて……まるであの時みたいに」
最後の言葉は囁くように小さい。
されど夏侯惇の耳はしかと拾った。
「あの時?」
「っ、いえ……気にしないで下さい」
酷く弱った状態で起き上がろうとする彼女の身体を支えようと手を伸ばすと、四凶がその腕を見て目を細めた。
「その傷……」
「お前を引き上げようとしたら、何かに弾かれてこの様だ」
「……申し訳ありません」
四凶が手を伸ばし、夏侯惇の負傷した腕に触れる。ややあって、掌から生じた暖かな光に腕が包まれた。
それを眺め、ああそう言えばこいつは怪我を癒せるのだったと思い出す。夏侯淵も、華雄からの傷を彼女の力で癒して一命を取り留めたのだ。
光が収まれば覗く肌は綺麗な状態に戻っていた。
完治したことを確認すると、四凶は徐(おもむろ)に立ち上がった。危うげな足取りで離れようとする。
あの十三支の女のもとに行こうとしているのだろうが、あの状態では途中で力尽きるのが関の山だ。
夏侯惇は彼女を呼んで立ち上がると、足を止めた彼女に近付いた。
「座っていろ。十三支の女は俺が呼んできてやる」
「しかし……」
「曹操様の屋敷でお前に倒れられては迷惑だ。そのずぶ濡れた身体で屋敷を汚す気か」
「……」
四凶はやおら頷いた。階段に腰を下ろし、夏侯惇に謝罪する。
四凶は酷く衰弱しきっていた。ここまで弱り果てているのは、初めてだ。
夏侯惇は四凶の青ざめたかんばせが苦痛に歪むのに眉を顰(ひそ)め、足早に彼女の主を捜しに向かった。別れた場所から、それ程離れてはいない筈だ。
――――しかし。それにしても。
あの時四凶を池に引きずり込んだ物は一体何だったのか。手のようにも見えたが、水と同化しているようにも見えた。
それに、夏侯惇の手を弾いたばかりが皮膚を抉ったあの見えざる力は、何だ――――?
考えても、彼には答えなど出る筈も無かった。
‡‡‡
頭が痛い。
全身が痛い。
吐き気がする。
どうしてか身体が異様に怠かった。
虎牢関の戦いの後に泉で襲われた時は平気だったというのに、どうして今はこんなにも体調が悪いのか。
幽谷にも分からない。
意識もぼんやりとしていて、ともすれば意識を失ってしまいそうだ。
幽谷は額を手で覆って何度か深呼吸を繰り返した。しかし、吐き気は収まらないし、痛みも止まぬ。
水に引き込まれた時、意識を失う寸前本気で殺されると思った。
やはり近付くべきではなかったのかも知れない。
金輪際、近付かないようにしよう。でなくば今後何が起こるか分からなかった。
座っているのすら苦痛になり始めると、幽谷は耐えかねて階段に横たわる。
すると、激しい睡魔が彼女の意識を包み込むのだ。
起きていなくては駄目だ。
駄目なのに。
夏侯惇殿が、関羽様を連れてきて下さるのに――――。
以後、彼女は何も考えられなくなった。
‡‡‡
幽谷が気を失うように昏睡してやや経った頃。
泉沈は彼女の前に立って舌を打った。
「また駄目だった。邪魔が入るなんて運が悪い……」
また中途半端じゃないか。
忌々しそうに眉目を歪める彼は、池を振り返り目を細めた。
「これじゃあ、もう水場には近付かないかも知れないじゃん。あーあ、メンドクサ……」
策を練り直さなくっちゃ。
首を回して骨を鳴らした彼は幽谷の身体を冷たく見下ろすと、
その場から陽炎のように揺らいで姿を消した。
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