12
――――逃げられた。
部屋に案内された後、関羽は屋敷の構造を頭に入れてくるからと颯爽と部屋を逃げ出した。……どうやら、説教を敏感に感じ取ったらしい。仕方がないからと、説教は翌朝することにする。
夜になっても部屋に帰って来ないからと、旅の疲れで眠ってしまった泉沈を部屋に残し、幽谷は関羽を捜しに部屋を出た。
「関羽様は何処にいらっしゃるのかしら……」
人気の無い廊下を歩きながら呟き、周囲を隈無く見渡す。
だが、女官の姿をたまに見かけるだけで、関羽らしき娘は何処にも見当たらない。
一体何処に行ってしまわれたのかしら。
これですれ違いで部屋に戻っていてくれたら、安心なのだけれど。
幽谷は屋敷を歩き回りながら、吐息を漏らした。
‡‡‡
「貴様! どうしてここにいる!」
関羽は頭を抱えたくなった。
廊下を歩いていたところ、不意に誰かにぶつかってしまったのだ。
その相手が、運の悪いことに夏侯惇と夏侯淵で。今一番会いたくない二人なのだった。
ああ、幽谷の説教の方がまだましだわ……!
「まさか貴様、曹操様の誘いを受けのこのこやって来たのではないだろうな……!」
「違うわ! わたしは武将なんてやるつもりはないもの!」
「ではなぜここにいる! 答えろ!!」
そこで、関羽は答えに詰まってしまう。
ここで素直に間者として兌州にやってきて、曹操にバレた後ここに滞在させられているなんて答えたら、明らかに怒鳴られる。
どう誤魔化そうか――――考えても咄嗟に良い考えなど彼女に浮かぶ筈もなかった。
それが、むしろ不審がられるのだと思わないでもなかったが、本当にどうしようもない。
ここに幽谷がいれば上手く逸らしてくれるかもしれないのに……! 逃げないで一緒に来てもらえば良かった!
「どうした? 言えぬのか……?」
「ふん、なら吐かせるまでだ。女、来い!!」
「きゃあ!」
腕を掴まれぐいと強く引っ張られる。
何処かに連れて行かれる――――まさか拷問でもされるんじゃ……!
危機感に抵抗しようとしたその時、
「待て」
曹操の声がかかった。
「曹操様!」
「そいつはわたしがここに留めている」
夏侯淵の手から関羽の手を剥がし、二人に告げた。
彼らは愕然とした。
「十三支の女をこの屋敷にですか!?」
「し、しかし、ここは我が国の中枢。他国の、しかも十三支などを留まらせておいていいのですか?」
「問題ない。仲良くしろとは言わんが、揉め事は起こすな。いいな」
関羽の手を離した彼は、そのまま何処かへ歩き去ってしまう。まるで、関羽が夏侯惇達に責め立てられているのに気付いて現れたかのような――――いや、考え過ぎか。
「曹操様は一体何をお考えなのだ……?」
彼には酷い目に遭わされている。
だが、関羽はやはり彼の容態も心配だった。
見逃してくれた恩もあるし、何か出来ないだろうか。
怪訝な顔で曹操の背中を見つめながら、関羽は思案する。
が、不意に夏侯惇が関羽を呼んだ。
「おい、女」
「あ……何?」
「貴様がいると言うことは、四凶もここに来ているんだな」
「ええ。今は一緒にはいないけど……」
「そうか」
彼は短く頷くと、さっと身を翻した。
「あ、兄者!」
早足にその場を立ち去っていく夏侯惇を、夏侯淵が慌てて追いかける。
関羽は首を傾けた。
「幽谷が、どうかしたのかしら」
まさか、洛陽の時みたいに手合わせでも強要するのかしら。
……まさか、ね。
‡‡‡
中庭に出た。
そこには池がある。水面には欠けた月と瞬く星が浮かびゆらゆらと形を歪める。
「……水に引かれたのね」
今は水場にはあまり近付きたくはないのだけど。
幽谷は嘆息し、足の向きを変えた。
すると不意に、耳鳴りが聞こえた。
お出でなさい。
「……!」
この、声は。
夢で聞こえる声だ。もっとも、最近は聞こえなくなっていた筈なのだが。
幽谷は耳を澄まして池を振り返った。
お出でなさい。
大丈夫。
安心して。
池に、誘っている。
池に来いと?
幽谷は躊躇する。この声に従えば、またあの手が出てきそうな、そんな気がしたのだ。
だが、声は幽谷が池に近付くまで止みそうにない。頭の中で反響し、少々不快だ。
一つ深呼吸をして、足を踏み出した。
一歩、一歩、ゆっくりと慎重に近付く。
心配はいらないわ。
安心して。
お出でなさい。
ここまで。
池の際に立ち水面を見下ろす。屈み込むと、水面に波紋が広がった――――。
何かが飛び出てくる。
あの時と違い幽谷は咄嗟に身体を後ろに仰け反らせてそれを避けた。改めて手を見れば、幽谷の右上腕にあるものと同じ鱗に覆われた、女性の如く細い手だ。
その主は幽谷が避けることなど予想していたのか、それはぐんと腕を伸ばし彼女を追い、首を捕らえた。
幽谷は匕首を突き刺した。
されど。
「ぐ……!?」
右腕に凄絶な痛み。何かに刺されたようなそれに、幽谷は意識をそちらに向けてしまった。
すると、手は一層力を強め、幽谷を池の中に引きずり込む。
頭から水の中に入った。息を止める間も無く、口から、鼻から水が入り込み胃に肺に流れ込む。
苦しい。苦しい。
幽谷はもがいた。腕の痛みなど息苦しさに押し潰されて意識の外に追いやられる。
遮二無二手足をばたつかせ――――そしてとうとう息苦しさに負けて、意識を手放すのだ。
頭の中が真っ黒に染まるその瞬間、何かが腰に巻き付いたような気がした。
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