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「……父上、わざわざご足労頂き有難うございます」
札を口に銜えて、泉沈と共に関羽の背後に立つ。関羽は部屋の前で待たされていた。
中では曹操と、曹嵩と思われる低く嗄(しわが)れた声が会話を交わしている。幽谷は耳をそばだてた。
その内、幽谷の中である程度の二人の関係が漠然とながらに分かってきた。
二人に親子の情など存在はしない。互いに利用し合っている印象を受けた。正直、この二人の前に関羽を置くことは気が進まない。
「関羽、入って参れ」
関羽がびくりと身体を震わせた。
その背中を幽谷がそっと押した。札を銜えて気配を殺しているので、彼女も泉沈も声を発することが出来ない。
関羽が扉を開けて中に入るのに、幽谷と泉沈は俊敏に従った。
「失礼いたします。関羽にございます」
「!!」
驚愕。
「じゅ、十三支だと!? この娘を私に会わせたいだと! 曹操……! お、お前は何を考えているのだ! お前は、やはり……!」
狼狽しきった父親に、曹操はふっと笑んだ。微かに嘲笑めいている。
「どうされましたか、父上。この者は董卓討伐の際、董卓軍の猛将華雄を討ち取りました、十三支の兵です」
「な、何! あの華雄を討った!?」
「はい、それだけではありません。あの呂布とも互角に戦う力を持ち、更にはこの兵の部下にそれ以上の武力を備える強者もおります」
「なんと!」
「大変優れた兵ですので、是非一度父上にお目通しをと思っておりました」
曹嵩はぎこちなく頷いた。『兵として』自分に会わせたのだと、まるで自身に言い聞かせるように納得して見せた。
それを見て、曹操は笑声を漏らす。嘲笑が一段と濃くなった。
「どうされましたか、父上。まさか私がこの者を私の妻として紹介したとでも思われましたか?」
「つ、妻!?」
……ふざけるな。
幽谷は即座に心の中で呟いた。
曹嵩はぎょっと目を剥いた。汗を流し、ぶるぶると震え出す。それは怒りではない。困惑、でもない。激しい動揺だ。
「な、何を言っておるのだ、お前は! そんなことある訳ないであろう! そんなことよりも、よい兵を抱えることは将としての務め。華雄を倒すほどの兵とはよくやった」
そこで、曹嵩は流し目に関羽を見やる。
「関羽よ、その武力、我が曹家のためこれからも存分に振るうように」
「は、はい」
傲岸な態度に関羽は大人しく頷く。そうしながら、上目遣いに彼を探るように見つめた。
「曹操よ、もっと曹家の名を高めるのだ。領土を広げろ。家臣を増やせ。我が曹家がこの中原を制するのだ! わかったな」
「……承知しました」
曹嵩は何故気付かないのだろうか。
息子はもう、父に対して分かり易い程に嘲りを表に出しているというのに。
平静を取り戻した曹嵩は全く気付く様子は無く、足早に部屋を出ていった。
関羽がほうと吐息を漏らして肩を落とすのに、幽谷の肩に手を押いて数回叩いた。すると、彼女は小さく礼を言った。
幽谷と泉沈は足音が聞こえなくなってから札を口から外した。
――――それから暫く。
「……くくく」
曹操の肩が震えた。
「くくくくく…ははは……あはははははは!」
突然の哄笑だ。
幽谷も関羽も怪訝そうに曹操を見やった。彼が、こんなに大きな声で笑うなんて。
「見たか? 先ほどの狼狽ぶりを」
「え? …ええ」
したり顔を曹操は扉の方を見、
「お前のお陰であの男の面白い姿が見られた」
「あの男だなんて、自分のお父さんでしょ? そんな風に言うのはよくないわ」
「父親か。ふっ、一応そうだな。残念ながら、私にあいつの血が流れているのは事実だ」
笑いながらも、そこにはしっかりと父親に対しての嫌悪が滲む。
関羽は眉根を寄せた。
「どうしてそんな言い方するの?」
「お前には関係のないことだ。それとも私に興味があるのか?」
「そ、そんなこと……!」
関羽は頬をさっと赤らめた。俯き加減に、迷うように視線をさまよわせる。
幽谷は曹操を見据えた。下らないことにわざわざ関羽を用いた、その真意を探るように。
曹操は彼女の視線を避けるように背を向けた。
「私の期待通りの働きだったぞ」
一体何を考えているのか。
ただ曹嵩の狼狽する様を見ただけで、彼は本当に間者の件を不問にしてしまった。確かに、関羽に間者としての能力は無いが、それに秀でた幽谷がついている。簡単に間者を続けることまで許可しても良いのだろうか。
それとも、これは関羽を手中に収める策の内なのか……。
「いっそこの屋敷に留まったらどうだ? ふふ、私の近くが一番この国の機密情報が集まるぞ」
事も無げに言うのだから、関羽は驚き、幽谷は更に勘ぐる。
「このまま幽州に帰れるのか?」
「そ、それは……確かにこの任務が失敗すればわたしたちは……」
「やはりそうか。どうせ公孫越あたりの茶々いれで、お前が間者を引き受けることになったのだろう」
まさにその通りである。
言葉を失う関羽に、曹操は薄く笑った。
「このまま間者を続けたくばここに留まれ。わかったな?」
「そんな、でも、見逃してもらった上に住むところまでお世話になるなんて……。それで、この国の情報をわたしは幽州に報告するのよ……やっぱり気が引けるわ」
……だから、彼女は向いていないのだ。
幽谷はこっそりと溜息をついた。
曹操もそれを分かっているから敢えて不問にし恩を売ったのかも知れない。
――――それはやはり、曹操軍の武将とする為にか。
「……関羽様。こう考えて下さい」
「え?」
「彼もまた、私と同じくあなたに間者としてまっとう出来るとは毛頭にも思ってません。ここに置いておくのは、恐らくはあなたをまだ諦めていないからです」
「関羽と違い、お前は本当に聡いな」
「お褒めに与り光栄です」
けんもほろろに返し、曹操を冷たく見据える。
曹操は鼻を鳴らした。
だから、嫌だったのだ。
あの洞窟での彼を見る限り、曹操の関羽に対しての執着は根深い。曹操は簡単には関羽を諦めないだろう。焦れて強行手段にまで出る可能性だってある。
されど、ここで失敗したからと幽州に帰ることも出来ない。
それに曹操の屋敷に滞在出来るのなら、町の中では得られぬ情報が取り放題だ。少なくとも幽谷にとっては。
彼女にとって一番最善なのは、関羽は半年の間曹操と接触せずに町で生活し、幽谷が情報を集めるというものだ。だが、自分が任務を遂行するつもりでいる関羽の頭には、勿論そんな考えは浮かばない。
「関羽様」
幽谷は関羽に耳打ちした。
すると彼女は大袈裟な程にかぶりと振る。
「駄目よ。幽谷じゃなくて私が間者を申し出たんだもの。幽谷に迷惑をかけられないわ」
「それは部下の私に喧嘩を売っているんですか?」
「ち、違うから! 違うからそんな怖い顔しないで幽谷!」
曹操が小さく噴き出す。
「幽谷としても、ここに関羽がいた方が安心出来るのではないか? 町ではかなりの騒ぎになったと聞く。表は歩けまい」
そうれはそうかもしれないが、それよりも曹操自身が一番危険だと認識している。
「それに、関羽をここに留めるのはお前の諜報活動に対しての一応の警戒も含んでいる。関羽がこの屋敷に滞在しないのならば、お前の身柄は拘束させてもらわねばなるまいな」
「簡単に逃げられるかと存じますが」
しかし。
それを聞いた関羽は何を思ったか、曹操にやおら頭を下げるのだ。
「……わかったわ。じゃあ、お役目の半年間、ここにお世話になります……」
曹操は満足げに頷いた。
「歓迎するぞ。我が屋敷、自由に使うがよい」
幽谷はこめかみを押さえた。舌打ちが漏れたのは、仕方がないと思う。
「関羽様……」
「ご、ごめんなさい。だって、その方が幽谷も安心出来るって聞いたら……、それに幽谷が拘束されてしまうのは、不安で……」
後者の気遣いはとても嬉しい。
が、そもそも、あの場で間者を申し出なければ、それはもう安心出来た筈なのだ。
それを言うと彼女は小さく謝罪し、泉沈の後ろに隠れた。
どうやら、幽谷の機嫌はまだ直りそうもない。
だが頭の片隅で、曹嵩の狼狽振りが引っ掛かっている。
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