「……泉沈。やはり、無理があるわ」


 家屋の影に隠れた女は頭から口元までを覆い隠す布を取り去って彼を見下ろした。その双眸は赤と青。泉沈と呼ばれた子供と同じく、四凶である。泉沈と違い、十三支――――否、猫族ではないのだが。


「だって、色々設定付けた方が面白いじゃん」


 泉沈は頬を膨らませて反論する。

 彼女は当初、間者として気配を消して動くことを推していたのでこの提案を酷く嫌がったが、遊び半分で勝手に設定を付けられ、挙げ句それでなければ片目を隠す以外の約束は守らないと駄々をこねられてしまってはやむを得なかった。多分、耳や目を隠したくなかったが故の発想だったのだろう。

 案の定、厄介なことになって兌州を一度去らなければならなくなってしまった。城壁の外で着替える訳にもいかず誰にも気付かれずに再び潜入するという余計な手間が増えた。

 彼女――――幽谷は嘆息し手早く着物を脱ぎ捨てた。その下は、いつもの動きやすい身形だ。それに外套を羽織り、懐から札を取り出し口に銜えた。


「関羽様も単独で探られているの。不慣れだからきっと大した情報は得られないでしょう。私達が代わりに情報を集めなくては」

「お姉さん、まだ怒ってるんだねー」


 泉沈も何処からともなく札を取り出し、同様に銜えた。彼も方術を扱えるのだ。しかも幽谷よりも種類が多い。
 幽谷は家屋の屋根に飛び乗ると周囲をぐるりと見渡し、駆け出した。それに泉沈も続く。

 二人は関羽とは別行動だ。これは幽谷の提案ではない。彼女の怒りがまだ続いていることを察した関羽が自ら言い出したのだ。

 関羽が曹操の動向、兌州の様子を何処まで上手く探れるか不安だが――――。


「……」


 ふと、立ち止まる。
 今、物凄く恐ろしい可能性が頭に浮かんだ。
 関羽は間者には非常に不慣れだ。国に知れず行動するなんて、難しい。
 一応関羽が曹操の屋敷に忍び込むことだけは止めろとキツく念入りに言っておいたが、町を彷徨く段階で怪しく思われて、そのまま捕らえられてしまわないだろうか。

 ……有り得る。
 幽谷はざっと青ざめた。

 思うが早いか、幽谷はくるりと方向を転換した。

 泉沈が問いたげに彼女を見やるが、札を口に銜えている為に何も言えずそのまま彼も身体の向きを変えた。

 屋根から屋根を飛び越えて関羽を隈無く捜索する。
 すると市街にて、兵士に囲まれている関羽を見つけた。猫耳を隠す布が取り払われている。

 周囲は大騒ぎだった。

 幽谷は咄嗟に札を取り出し兵士の足下へと投げつけた。
 直後、爆発。勿論大きなものでなく、目眩まし目的の小規模な爆発だ。煙が大量に発生する。

 そんな中に飛び込んで幽谷は関羽の隣に着地するとその身体を抱え上げる。泉沈を呼んでその場から走り去った。途中兵士の一人に顔を見られてしまったが、仕方がない。


「幽谷……!」

「舌を噛みますよ」


 強く地面を踏み締めて屋根に登る。
 それからこの町で一番高い建物の屋根に登ると、そこに関羽を降ろした。


「……あなたを捜して正解でした」

「ご、ごめんなさい……」

「敵国の要人にも、民にも怪しまれぬ、それが大前提であるとここに来る前に指南致した筈なのですが」

「うう……」

「まあまあ、関羽のお姉さんは今まで平和な暮らししかしてないんだもん。こういう時役に立たないのは仕方ないと思うよー」


 にこやかに、泉沈は毒を吐く。勿論悪気は無い。悪気が無いからこそ、こと残酷である。

 関羽は更に落ち込んだ。

 幽谷はそれを一瞥して下を見下ろす。


「幽谷? あまり身を乗り出すと落ちてしまうわ」

「……暫くは下に降りない方がよろしいかも知れませんね。兵士がそこらを走り回っています」


 降りるのであれば、関羽には札を銜えてもらう。無論自分達も。


「幽谷」

「……はあ」

「うぅぅ……」


 これ見よがしに溜息をついてみせると、関羽は目を瞑って眉間に皺を寄せ、俯き加減に唸る。

 しかし、こうなると兌州で探ることが難しそうだ。関羽も自分も、兵士に顔を見られている。関羽と泉沈を安全な場所に置いて幽谷が探ることも、札無しでは難しそうだ。

 さて、これからどうしよう、か――――。


「あ、やっべ」

「ああ!!」


 突如鼓膜を叩いた泉沈と、関羽の声。
 切羽詰まったようなそれに振り返ると、関羽が泉沈に引っ張られるような形で屋根から落下していた。ついでに言うと、泉沈は懐いて寄ってきたのだろう若い烏に腕を引かれている。

 幽谷は咄嗟に駆け出し、関羽の身体を抱き締めた。泉沈の腕を掴むが、踏ん張りきれずにそのまま引力に負けて落下した。


「っきゃああぁぁぁ!!」

「わー」

「……っ」


 特にさして動揺もしていない泉沈が懐から札を取り出して地面に向かって投げつけた。
 すると風が巻き起こり、幽谷達の身体を包み込む。緩衝材になって落下の衝撃を和らげてくれた。

 幽谷達は無事に着地する。
――――雑踏の直中(ただなか)に。


「嫌ああああ!!」

「十三支、それに四凶だって!?」

「誰か兵士を呼べー!!」


 混乱が広がる。
 慌てふためく関羽の隣で、幽谷はたまらず頭を抱えた。

 頭痛と眩暈が酷い。



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