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蒼野は長閑(のどか)な場所だった。
新しい居住の地は、彼らにとって十分過ぎる好条件が揃っており、猫族は思わぬ僥倖(ぎょうこう)に一様に喜んだ。
その日は宴程ではないものの、豪勢な食事と酒で騒ぎ、今まで溜め込んでいたものを全て発散させた。
戦による疲労と心労で、一頻(ひとしき)り騒いだ猫族の者達は昏々と眠った。中には酷い鼾(いびき)を掻いている者もいる。その中に世平も含まれているのは言わずもがなである。
劉備と泉沈を寝かしつけた幽谷は、関羽を起こし共にその場を離れた。
少し離れた辺りで、ふと幽谷が足を止めて振り返る。
そこには起きていたのか、趙雲の姿があった。
「行くのか?」
「趙雲!? 起きてたの?」
趙雲は頷くと、少しだけ眦を下げた。
「折角新しい地に移ったばかりなのに、もう少しゆっくりしていってもいいんじゃないか?」
関羽は黙り込み、口角を弛めて困ったように微笑む。
彼女も、これ以上いると離れづらく感じてしまうと思ったのだろう。幽谷も、正直今でも後ろ髪を引かれる思いである。幽谷以上に猫族を大事に思っている彼女が決心が鈍らない内にと思っているのは当然のことだ。
「劉備殿や張飛、それに泉沈だって泣いて悲しむぞ」
「劉備と泉沈のことは世平おじさんにお願いしたわ……劉備はきっと泣いてしまうと思うけれど」
関羽と幽谷が兌州に行くことは、世平には話してあった。勿論止めろと言われたが、すでに決まったことだ。幽谷もついていくと言うので、すぐに折れてくれた。
「俺もついて行こうか?」
「ううん。ありがとう。趙雲にはみんなのことを見ててあげてもらいたいの。新しい土地でわからないこともいっぱいあると思うし」
戦いに行く訳ではないのだから大丈夫だと、関羽は敢えて明るい声で言った。
しかし、趙雲は曹操が猫族を利用していることを知っている。気を付けろと真摯に関羽を見つめて言い聞かせた。
もっとも、気を付けなくても幽谷が守り抜くつもりでいるのだが。
趙雲は関羽はすぐに頷いた。
「じゃあ、そろそろ行くわ。みんなによろしくね」
「わかった。何かあったらすぐに戻って来いよ!」
「ええ、わかったわ」
歩き出す関羽に、幽谷も趙雲に一礼して続く。
が、何故か手首を捕まれて止められてしまった。
「幽谷」
「何でしょうか」
「絶対に一人で抱え込むなよ、関羽にくらいは、包み隠さずにいてくれ。それと、無理はしないでくれ」
関羽に言ったような優しい声音で、趙雲は幽谷にも言い聞かせた。
幽谷は暫し黙り込んだ後、やおら頷いた。
「頭の片隅には置いておきます」
手を剥がし、趙雲に会釈して関羽の後を追いかけた。
趙雲は、二人の後ろ姿をいつまでも見つめ続けていた。
‡‡‡
街道沿いに歩いていた幽谷は、背後に気配を捕らえて匕首を手にして身体を反転させた。
しかし、そこに立っていた人物に目を見張る。
関羽も声を上げた。
「あ、あなた!」
「何処行くの?」
ぴんと立った黒い猫耳。
黒と金の双眸。
無邪気な笑顔。
蒼野に置いてきていた筈の泉沈であった。
「幽谷のお姉さんも、関羽のお姉さんも。いきなり何処かに行っちゃうんだもん。びっくりしちゃったー」
今まで、自分達を付けていたのだろうか。
幽谷は匕首を外套裏に戻して泉沈に歩み寄った。
今まで、気配を全く感じなかった。この街道には隠れるような場所は何処にも無い。
泉沈は笑いながら、幽谷に抱きついた。
「何処に行くか分からないけど、僕も一緒に行く」
「え? そ、そんな駄目よ! 危ないわ」
「でも僕、人間よりは強いよ。それに、幽谷のお姉さんよりも方術使える僕もいた方が何かと助かると思うけど」
こてんと首を傾げる泉沈に、関羽はそれでも首を横に振る。
「でも今まで人間に酷いことをされていたんでしょう? 半年も人間の国にいなくてはいけないのに、辛くはない?」
「何で? 気に食わなければ殺せば良いじゃん」
それが、問題なのだ。
幽谷と泉沈が一緒に行けば、まず四凶だと騒がれるだろう。幽谷は流してしまえるが、泉沈のこの性格では本当に人を殺しかねない。それでまた更に状況を悪化させる可能性は非常に高かった。
関羽と幽谷は顔を見合わせ、眉根を寄せる。
「どうしよう……今から戻ったら、皆起きてしまうかも。泉沈を一人で帰す訳にも行かないし……」
「だーかーらー、僕も行くってばー」
幽谷は嘆息した。
泉沈と目線を合わせるように屈んで、双肩に手を置いた。
「泉沈。ついてくるのなら、幾つか約束してちょうだい」
「うん」
こくりと頷く泉沈に、幽谷は三つ約束を提示した。
一つ、片目を隠すこと。
二つ、人を絶対に傷つけないこと。
三つ、人を挑発して事を荒立てたり、無闇に騒ぎを起こさないこと。
「約束出来る?」
「うん。出来るよー」
……不安である。
幽谷は目を細めて泉沈を見据えた。
泉沈はまた首を傾ける。
「ねえ、約束したら本当にお姉さん達と一緒に言って良いんでしょう?」
「……ええ」
「じゃあ、約束する。はい」
すっと差し出されたのは右手だ。
幽谷は何度か瞬いてそれを見下ろした。
この手は、握手を求めているのだろうが、どうしてこの流れで握手なのだろうか。
「これは?」
「ん。約束の握手。昔、友達が教えてくれたんだ。こうして、ぎゅうって握って感触を覚えて約束の証にするんだって」
ああ、それならと肩から手を離して彼の手を握る。力強く握り締められた。
「友達が、いたの?」
泉沈は笑って、頷いた。
けれど、不意に遠い目をして顎に手を添えた。握手した手を剥がして。
「あれ……いたっけ、友達」
「え?」
心底不思議そうに呟く泉沈を、幽谷は怪訝に見つめた。
「……ま、良いや。行こうか、関羽のお姉さん」
「そ、そうね……。幽谷」
「分かりました」
関羽の戸惑いに揺れる黒の瞳を彼女に向ける。本当に良いのかと問いかけてくる。
幽谷は頷いた。
「ええ、私が責任を持ちましょう」
泉沈の様子を眺めながら、幽谷は細く吐息を漏らした。
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