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趙雲がいる為か、兵士の視線は冷たいものの、右北平に入ることを止められたりはしなかった。
幽谷は包帯で左目を隠し、関羽と趙雲の後に続く。
公孫賛の城は、沛国礁県の曹操のそれとはまた違った荘厳な佇まいを見せている。
中の細かく手の込んだ細工はしかしさほど華美ではない。権力者らしい意匠だが落ち着いた風の装飾は、公孫賛らしいものである。それ故に、案内された大広間の階段を上った先にある豪奢な椅子は際立って視線を引いた。
緊迫した空気の中、関羽は身を堅くして背筋をぴんと伸ばして直立していた。
幽谷は関羽の隣に片膝を付いて、彼女の様子を案じるように見上げた。
「顔が固いぞ。大丈夫か?」
「うん……。やっぱりどうしても緊張してしまうわ」
「関羽様、私がおりますので」
「ありがとう、幽谷」
「肩の力を抜くことだ。お前達はここで客人なのだからな」
関羽の肩を叩くと、彼はふと視線を上げて、表情を引き締めた。
足音が聞こえた。幽谷は咄嗟に顔を下に向けた。関羽が息をひゅっと吸ったのが分かった。
足音が止めば、穏やかな声が大広間に広がった。
「すまない、待たせてしまったか。前の公務が少し長引いてな」
「いいえ、こちらこそ突然押し掛けてしまい申し訳ございません」
「何、気にするな。まずは、北平へようこそ。太守として私はお前たちを歓迎しよう」
「ありがとうございます」
関羽が頭を下げる。
と、公孫賛が幽谷に気付いたらしい。
「お前は幽谷であったか。顔を上げなさい」
「……失礼致します」
顔を上げれば、公孫賛の笑顔は消えた。包帯に隠された幽谷の顔半分に顔を歪め、
「怪我をしたのか?」
「いえ、私の見てくれは、人に不快感を与えます故」
「……そうか。だが、ここでは外しておきなさい。目が悪くなってしまう」
「構いません。どうぞ、お話をお進め下さいまし」
公孫賛と趙雲、関羽だけが大広間にいるのではない。護衛の為に兵士も多少いる。彼らに幽谷が四凶であることが分かれば、公孫賛に迷惑がかかる。これから彼の世話になるかもしれないのだから、細心の注意を払うべきだ。
片目を隠しているだけであって、生活する分には困らない。
公孫賛は寂しそうに笑うと、気を取り直して関羽を見やった。
「時に、あのシ水関、虎牢関の戦い……、お前たち猫族の、とくに関羽、幽谷。お前たちの活躍は目覚ましかった。あの猛将華雄との戦いで見せた絶技、虎牢関の董卓軍を一掃した早技、今思い出してもため息が出るほどだ」
幽谷のあれは、褒められるべきものではない。恐れられて当たり前の惨劇だった。それでも彼はそう言った。恐れを抱かなかった筈もなかろうに。
幽谷は頭を下げたまま苦々しく唇を歪めた。
「いえ、そんな……。わたしはただ、必死だっただけです」
謙遜する関羽と違い、幽谷は何も言わなかった。関羽がちらりと、案じるように彼女を見下ろした。彼女なりに、幽谷の心中を察してくれているのだろう。
「反董卓連合が解散した後、お前たち猫族のことが気がかりで趙雲を向かわせたが、こうやって、共に私の元に来るということは、何かあったのだな?」
趙雲が、そこで話を切り出した。関羽や幽谷の代わりに、猫族の村が人間の軍に焼かれたこと、猫族の住処が無くなり、途方に暮れていること、余さず詳細を関羽達に補足されながら彼に伝えた。
公孫賛の顔は、話を進める程に暗く沈んでいった。猫族でもないのに、まるで我がことのように沈痛な面持ちで関羽を労(いたわ)り優しく声をかけた。
「ようやく故郷へと戻れたというのに、気の毒なことだ。確かに、あれだけの活躍をした猫族に対しての、董卓の恨みはひとかたならぬものがあるだろう。いつまた村が襲われても不思議はない」
それから趙雲を褒め、彼は思案する。太守として忙しい身の上なのに突然押し掛けてきたのだ、迷うのも無理はない。
しかしここで拒絶されたら猫族の行く宛は無くなってしまう。
関羽も同じことを思ったようだ。公孫賛に頭を下げて、領内に済ませて欲しいと嘆願した。
勿論、人目に付く場所は望まない。ひっそりと隠れて静かに暮らせればそれで良いのだ。
人との接触は絶対にしないと約束した上で必死に頼み込んだ。
そこで幽谷は顔を上げ、初めて自ら口を開いた。
「必要とあらば、見返りに私が暗殺などをお引き受け致しますが」
「幽谷!」
関羽に咎められる。
だが、犀家でも優秀な人材だった幽谷であれば、公孫賛は望まずとも下の文官などが欲するだろう。
猫族が安心して暮らせる場所を得られるのならば幽谷は別に構わない。ただ、昔程の高い成功率は求められないだろうが……。
公孫賛の返答を待っていると、彼は苦笑を浮かべて「その必要は無い」と。
「幽谷よ。私は、お前たちが来たことを迷惑だとは思ってはいない。むしろ、この私を頼ってくれたことを嬉しく思っている」
「でも、さっきどうしたものかって……」
「それはお前たちが快適に暮らせるようにするにはどうすればよいか? それを悩んでいただけのことだ。私としては、この右北平で好きに暮らしてもらいたいところだが、猫族や四凶が、まだまだ人に受け入れられていないことも事実。お前たちにも、不快な思いをさせたくはない。かと言って、あまりに人里離れた山に追いやるのも不憫。ふうむ……」
彼はまた思案して、ふと何か思い付いたように一つ頷いた。
「ここより、ほんの一里ほど離れた場所に蒼野という場所がある。木の実や果物も豊富。清流もあり飲み水に困らない。それに、あそこの丘は日当たりもよく、実に気持ちのよい場所だ」
そこを猫族に与えると、彼は言ってくれた。当然のように、いつまでもいて良いとも。
……何処まで、優しいのか。
「公孫賛様……そんな素晴らしい土地をわたしたちに……?」
「よかったな。早速他の皆にも知らせてやろう」
関羽はぱっと花が咲いたように笑った。趙雲に大きく頷いてみせ、がばりと公孫賛に頭を下げる。
それから幽谷を無理矢理立ち上がらせて両手を握って喜色満面の笑みを向けた。
「幽谷、わたしたちを住ませてくれるって!」
「はい、私もしかと聞きました。ようございましたね」
嬉しさで緊張も不安も吹き飛んでしまったらしい。さっきまでの緊張が嘘のようだ。
幽谷は苦笑混じりに、関羽の手を握り返した。
が、その時である。
「失礼つかまつる!」
そこに、知らぬ声が入り込んできた。
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