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「腕の具合はどうだ」
猫族から離れ、誰も聞いていないことを確かめた趙雲はそう訊ねてきた。
腕、とは恐らく右腕の鱗のことだろう。彼も見ているから気にかかっていたようだ。
洛陽でも腕のことを励ましてきたし、彼がお人好しなのは分かっていたが、まさかここまでとは。およそ人の変化ではなかろうに、何故気味悪がらないのか。甚(はなは)だ疑問だ。
幽谷は趙雲を胡乱げに見上げた。
「何故、今それを?」
「心配になってな。進行はしていないのか?」
そこで、幽谷は一旦右腕を掴んだ。布越しに伝わるその感触に、眉間に皺が寄る。自分の身体なのに、気味が悪い。
それが広がっていないことを確認して趙雲を見上げる。
「今のところはまだ」
「そうか」
趙雲は安堵し、薄く笑む。
何故、この男は気味悪がらないのだろう。
自分でもこの変化は気味が悪い。生き物の理(ことわり)を越えている。
なのに、彼らは。
猫族も、この男も、むしろ私の心配をしてくるなんて。
……どうして、そんな真似が出来る?
「……あなた方は、気味悪がらないのですね」
ぽつりと漏らした声に趙雲は瞠目する。
幽谷はすぐに身を翻した。
すると、趙雲は逃がすまいと彼女の手を掴んで強く引き寄せてくる。背中がどんと彼の胸に当たった。
猫族の集団は二人の様子に気付いている様子は無い。これだけ離れているのならば、分からないのかもしれない。
唐突に、右上腕に感じた覆うような感触。幽谷は目を剥いた。
――――掴まれている。
咄嗟に離そうとしたがその前に趙雲が囁くように言うのである。
「大丈夫だ。猫族も俺も、お前を見捨てたりなどはしない。関羽が優しいことは、俺よりもお前が知っているだろう?」
「……」
右腕から圧迫感が無くなったかと思うと、頭に重みが載った。
「俺のことは良いが、関羽たち猫族のことをもう少し信じてやれ」
優しい声音であった。関羽に、あの滝でかけられた声と同じ――――。
幽谷は目を伏せかけて、はっと見開いた。慌てて腕を振り払い、肩越しに趙雲を睨みつけた。
「右腕に触るのは、止めていただけませんか」
キツく言って、彼が謝罪する前に前を向く。
……何てこと、だ。
彼と関羽を重ねるなんて、あってはならないことだ。というか、有り得ない。有り得ない。
色々と混乱しているのだろう。きっとそうだ。泉沈に黄河で出会ったことに始まり、曹操が関羽を強く求めて、猫族の村が人間に焼かれて、自分でも思う以上に気が乱れているのだ。
人間に関羽と似たような感覚を得るなんて……私らしくない。
溜息を突いて、幽谷は歩き出した。
‡‡‡
右北平が小さく見えてきた。
幽谷は目を細めた。
その側で、関羽や劉備も同様に細くする。
「ようやくここまで来たな。この先が、公孫賛様のおられる右北平の都だ。さあ、行こう」
「は?」
笑顔で猫族を振り返る趙雲に、幽谷は柳眉を顰めた。
「ちょっと待って、趙雲。いきなり、わたしたちが都に入っていったら大騒ぎにならない?」
「何故だ?」
「何故って……わたしたちは、猫族なのよ」
おまけに幽谷と泉沈は人の世界では四凶と忌み嫌われている。混乱は必定である。
「姉貴の言うとおりだぜ。しかも、幽谷や泉沈もいるし、四百人近い団体様だからな。十三支と四凶が来たー! って騒がれるんじゃね?」
「んじゃ、僕が全部殺そうか? ――――いてっ」
「それは要らねー」
泉沈がにこやかに言うのにすかさず張飛が彼の頭を叩いた。
趙雲は泉沈の言動には何も言わず――――人間の責任であると受け止めている故であろう――――関羽や張飛の指摘に思い至り、申し訳なさそうに目を伏せた。
「そうか。世の中にはお前たちのことを疎ましく思う人間がいたんだったな。この趙雲。今の今まで忘れていた。申し訳なく思う」
がばっと頭を深々と下げられ、関羽は困惑した。両手も首も左右に振って顔を上げるように言った。
「い、いいのよ。別に謝られることじゃないんだから」
趙雲は関羽の言うままに顔を上げ、思案する。
それからまず趙雲と猫族の代表で、公孫賛に会うことを提案した。勧められたのは関羽だ。確かに、連合軍にて彼女は公孫賛と話してい?。彼女以外の猫族が行くよりは円滑に話が進むだろう。
護衛として自分も同行したいところだが――――公孫賛は幽谷が四凶と忌まれていることを知っている。優しくはしてくれたが、大事な話に四凶が加わっても良いものか。
趙雲もいることだし、公孫賛の人柄を考えても、関羽が危ない目に遭う可能性は少ない。
それに泉沈のことも気がかりであった。幽谷が関羽と一緒に行くとなれば、彼も付いてきそうだ。
だが、関羽が幽谷の手を掴んでくる。
「じゃあ、幽谷。一緒に行ってもらえない?」
「え……?」
「駄目、かしら?」
眉尻を下げる彼女に幽谷は慌てて首を横に振った。
「いえ、そんなことは……しかし、私は四凶ですし、行かない方がよろしいのでは?」
「幽谷か……。そうだな、幽谷も同行した方が良いだろう。公孫賛様は、お前のことも心配されておられた」
決めかねて世平を振り返ると、彼は泉沈の頭に手を置いて頷いた。泉沈のことは任せろと言うことなのだろう。
幽谷は彼に頭を下げた。
「分かりました。私もお供致します」
「ありがとう。幽谷がいるなら心強いわ」
「……ありがとうございます」
関羽が自分を拒絶していないことに、幽谷もまた安堵する。鱗のことがあって、彼女は過敏になっていた。
関羽も彼女とは違う意味で安堵するのに、趙雲は笑う。
「よし、じゃあ行こうか」
「ええ。みんな、行ってくるわね」
関羽が言うと、やはり泉沈が不満の声を上げる。
「僕も行きたーい!」
「お前は俺たちと一緒に留守番だ」
「ぶー」
彼はぷくっと頬を膨らませた。
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