幽谷は目を細めた。
 やはり、もう周辺に人間はいない。おまけに手がかりも残されていない。立つ鳥跡を濁さず、痕跡を残さずに燃やすだけ燃やして立ち去ってしまったのだ。

 人里近くまで出ていた彼女は細く吐息を漏らし、くるりときびすを返した。

 すると、


「幽谷!!」

「……」


 聞き覚えのある声に、足が止まる。ひくりとこめかみがひきつった。振り返りたくないのだが、振り返らなければ、あの自分を呼ぶ大音声は近くの村の人間の耳に入ってしまう可能性がある。
 幽谷はゆっくりと振り返った。


「……趙雲殿」


 何故、ここに。
 真っ白な馬を下りて幽谷の前に立った彼――――趙雲は安堵したように笑った。しかし彼女が嫌そうに顔を歪めると、それも苦笑に変わってしまった。


「良かった、無事だったんだな。関羽達は?」

「関羽様達は皆ご無事です。ですがどうしてここにいらっしゃるんですか。道でも間違えられましたか? そうでないのならさっさとお帰りになったら如何です」


 刺々しく言うと、趙雲は苦笑のまま首を横に振った。


「違うんだ。公孫賛様に命じられて、お前達の安否を確かめに来たんだ」


 どうしてこの場所を知っていたのかと問えば、昔公孫賛が親しい者にこの場所を聞いたのだそうだ。
 果たして、それは信用できるものなのか。
 幽谷は片目を細めて彼を探るように見上げた。

 もしや、公孫賛が軍を差し向けたのでは――――。


「幽谷? どうし――――」

「おぉーい。そこの人達ー!」


 二人にかけられた声に、幽谷は咄嗟に目を閉じた。俯いて、目が見えない人間を演じる。

 趙雲も相手が人間だと言うことに気付いてか、幽谷の手を引いて背中に庇い、駆け寄ってきた声の主に対応してくれた。


「ああ、何だ」

「あんたら、ここで逢瀬するのは止めた方が良い。少し前に、軍が通ったばかりなんだよ、何をしたかったのか分からねぇが、向こうで火事があってな。幸い広がりはしなかったが、また軍が戻ってくるかも分からん。厄介なことに巻き込まれちまう前に、ここから離れなさい」

「お気遣い傷み入りますが、私と彼はそのような関係ではございませぬ。ただ、私の目が見えませぬ故、彼には色々と心を砕いていただいているのです」


 取り敢えず変な誤解は至極迷惑なので解いておこうと、それだけを言う。

 男は驚いたような声を上げたが、何故か趙雲に「ま、頑張りな」と声をかけた。意味が分からない。


「とにかく、まだこの付近は危険だ。さっさとこの場を離れた方が良い。じゃあな」

「ご忠告、まことにありがとうございました」


 頭を下げようとして、趙雲の背中にぶつけた。黄巾賊討伐の陣屋程気を張っていない所為か、距離感が分からない。
 暫く無言でいると、趙雲が幽谷の腕を掴んで歩き出した。咄嗟に目を開けば、彼は真っ直ぐ猫族の村の方へと歩いて行くではないか。


「ちょっ」

「詳しい話は後で頼む。今は、関羽達の安否が知りたい」


 趙雲の声は先程と比べて堅かった。
 村人の話を聞いてまさかとでも思ったのか、足早に歩く。

 幽谷は吐息を漏らした。あまり気が進まないが、今の彼は止めても聞かない気がする。
 一応の彼の性格は知っているし、認めるのも癪だが彼自身は多少の信頼を寄せても良い人物であろう。公孫賛も、よくよく思い出してみればあのようなことをする人物とも思えない。

 取り敢えず、非常に不愉快ではあるが、このまま趙雲に従ってみよう。
 ……本当に、気に食わないが。



‡‡‡




「こんなところにいたのか……」


 趙雲が幽谷を連れて猫族の村にやってきた時、世平達や村に残っていた者達も無事に合流していた。
 驚いて趙雲を振り返った関羽達は、趙雲と幽谷を見つけるなり仰天した。


「驚かせてしまったようだな。すまない」

「趙雲!?」

「に、人間!?」


 趙雲を知らない者達はどよめき、敵意を露わにした。

 しかしすぐに関定が宥める。


「みんな、落ち着け。こいつはオレたちに危害を加えるような人間じゃねぇから!」

「……そうかな? ここを知っているってことはこの火事と何か関係があるかもしれない」


 すかさず口を挟んだ蘇双は、趙雲に近付くと些か乱暴に幽谷の手から彼の手を剥がした。それから幽谷の手を引いて関羽の隣に立たせる。直後に泉沈が腰に抱きついてきた。

 冷たく趙雲を見据える甥に、世平が咎めた。それでも蘇双には悪びれる様子は無い。
 仕方なく、彼は趙雲に問いを投げかけた。


「趙雲、お前どうしてこんなところにいるんだ? 公孫賛様と国に帰ったんじゃなかったのか?」

「これは幽谷にも話したのだが、俺は公孫賛様からお前たちの安否を確認するよう命を受けたんだ。討伐を果たせなかった今、董卓がお前たちを狙う可能性がある。公孫賛様はそれを危惧していらっしゃる」

「公孫賛様が?」

「ああ、この場所も公孫賛様から聞いた。以前親交のあった人から聞いたと言っていたが……ここを知っているのは、そんなに不思議なことなのか?」


 そこで、関羽が猫族が人間に隠れて生活していたことを話す。
 趙雲の顔が少し変わった。

 だが彼が何かを言うよりも、猫族の男が怒りを露わにする。


「ここのことを知ってる人間がいたなんて信じられない……! 一体誰が人間に漏らしたんだ!?」

「公孫賛様がこの村のことを知っていたとは……つまり公孫賛様は、今まで知っていたけど俺たちを放っておいたってことか!?」

「まぁ、でも公孫賛様なら放っておいても不思議はないんじゃねーか? あの人、いい人間っぽじゃん」

「関定、君にはどうしてそこまで警戒心がないんだ……」


 あくまで楽観的な関定に蘇双が溜息をつく。

 関羽は、関定と同じ意見のようだ。彼女が一番公孫賛と接しているから、感じたことそのままを伝える。

 それに重ねるように、趙雲。蘇双を強く真っ直ぐ見据える。


「公孫賛様はお前たちを心から心配していらっしゃるんだ。それだけは信じてもらえないか?」


 蘇双はふいとばつが悪そうに顔を逸らした。


「すまないな、趙雲。こいつも猫族を守るために必死なんだ」

「ここが隠れ里だったなら仕方ない、気にしないでくれ。それにしてもこの状態は一体……」


 趙雲は改めて村の惨劇を見渡し、痛々しそうに顔を歪めた。

 彼の疑問に、未だ憤懣(ふんまん)の冷めやらぬ風情の張飛が答える。


「そうか……。これまでここに住んでいたんだろう。これから、どうするつもりだ?」

「本当はここに住み続けたいけど、難しいかなって話していたの。人間に見つかってしまったし……」


 関羽の言葉に彼は考え込んだ。腕を組んで、再び村を見渡す。
 彼が言を発すまで、関羽達はその様子を黙って眺めていた。

 やがて、趙雲は猫族全体を見回して提案する。


「もし住む場所にあてがないのなら、公孫賛様の領地に来ないか?」


 もちろん、お前たちがよければの話だが。
 猫族達は一様に目を剥いた。



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