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「あ! お前は四凶!」


 身体の震えに気付かぬフリをして、関羽を追って走っていると、軽傷で済んだらしい兵士を前方に見つけた。

 彼は安堵したように幽谷に駆け寄り、関羽達が休んでいる洞への道を教えてくれた。そして、本体を呼んでくると幽谷が走ってきた道を行った。
 一応、あの場で襲いかかってきた董卓軍は全滅させているから、襲われることは無いだろう。

 幽谷は兵士が小さくなるまで見送って、彼に教えてられた道を辿った。

 すると、兵士が言っていたような大きな洞が見える。
 周囲の様子を窺って、中に入った。

 洞の中は存外深い。日の光が届きにくい奥まで来て、幽谷は声を発した。


「関羽様」

「あっ、幽谷!」


 彼女の声が聞こえたことに酷く安堵した。吐息が漏れた。
 懐から札を取り出して撫でると、淡く発光して中を照らした。

 曹操と、幽谷が治療を施した兵士は壁に寄りかかり、奥に横たわる兵士を心配そうに見つめていた。

 札を壁に貼り付けて関羽に歩み寄った。

 彼女に声をかけようとした瞬間、しかし、泉沈が幽谷の腰に抱きついた。


「おかえりー」

「……ええ」


 頭を撫でてやると嬉しそうに笑う。

 そこに曹操が掠れた声を出した。


「戻ったか……」

「はい。まだ、生きておられるようですね」

「ふ……残念だったな」


 そう笑う彼は、相当弱っている。唇の色も変わっていた。毒の所為だ。
 幽谷は泉沈をそっと剥がすと曹操に歩み寄る。
 それから徐(おもむろ)に匕首を取り出し己の手首に刃を当てた。すっと斬る。赤い一線が引かれ、そこから血が垂れた。

 曹操が目を瞠った。
 関羽も咎めるように彼女の名を呼んだ。

 彼らの様子に構わずに、彼の口に近付ける。


「私は、一度経験した毒は身体に抗体が生まれますので効きません。それ故、私の血は確実な解毒剤にもなります。どうか、お飲み下さい。四凶の血ではございますが」

「……つくづく、不可思議な存在だな」


 幽谷の腕に口を近付け、舌で血を掬い取る。
 それを口に入れ嚥下するのを確認した彼女は一つ頷いて重傷の兵士に歩み寄った。


「関羽様、その者の状態は?」

「あ、その人もう助からないよ」


 これは泉沈だ。
 関羽がきっと彼を睨むが、彼は色や大小様々な玉(ぎょく)を地面に転がしていた。


「……占い、ですか」

「うん。暇だったからこの人の命運を占ってたんだー」


 彼、尽きてるよ。
 邪気の無い笑顔で不穏な言葉を吐く泉沈は「あ、そうだ」と曹操を見やった。


「お兄さんの命運も占ってあげようか?」

「……いいや、要らぬ。私は、ここでは死ねぬ故な」

「何だ、つまんないの」

「泉沈」

「だって人間じゃん。よくもまあ、助ける気になるよねー。僕ら四霊は人間に勝手に四凶呼ばわりされちゃうし、不吉だって決めつけられて殺されちゃうし。そんな奴ら、助けるなんてお姉さん頭おかしー」


 玉を片付けて、泉沈は肩をすくめる。

 関羽が彼を叱りつけようとするのを、幽谷は手で制した。今は兵士が先決だ。
 彼女は兵士の側に膝を付き、彼の傷に手を翳した。

 が――――すぐに引っ込めてしまう。


「え……幽谷?」

「……申し訳ございません」


 もう、間に合いません。
 幽谷の言葉に関羽は息を呑んだ。

 血を流しすぎている。
 口からも血を吐いているようで……傷を癒してももう――――。


「ま、まだ見捨てないで! この人達だって家族がいるのよ!」


 関羽は幽谷の隣に座って彼女の手を無理矢理兵士の傷に翳した。

 それに、幽谷は目を伏せる。


「お願い……幽谷」


 泣きそうな、か細い声が胸を抉る。
 幽谷は、頷いた。

 手から、淡い光が溢れる――――。



‡‡‡




「曹操様!!」

「姉貴!!」


 静かで仄暗い洞の中に、夏侯惇と張飛の声が響く。

 幽谷はゆっくりと彼らを振り返った。その足下には関羽が兵士を必死に看護している。

 夏侯惇は口を閉ざした曹操に駆け寄った。声をかけるが、彼は関羽に看護される兵士に目を向けたまま何も言わない。

 夏侯惇が黙り込むと、兵士の荒く弱った呼吸音は際だって聞こえた。

 段々と、力が無くなっていく。呼吸が浅くなっていく。
 それでも関羽は看護を続けるのだ。彼の死は誰の目にも明らかと言うのに、助けようと必死にもがいている。

 果たして――――彼は、息を引き取った。

 最期に母の名を呼び、力が入らぬであろうに弱々しく腕を上に掲げた彼は、曹操を守ったのだと誇らしげに笑い――――落とした。
 力の失われた腕は、関羽の膝にぱたりと載った。

 関羽はその腕を握り、祈るように額に押し当てる。涙が溢れ、こぼれた。

 幽谷はその側で瞑目し、兵士に向かって深々と一礼した。

 重い静寂が、洞を満たす。


「十三支の娘、それに四凶……最期にあいつを安らかに送ってくれてどうもありがとう」

「……うん」


 その時ばかりは、泉沈も何も言わなかった。ただ、その黒と金の目は軽蔑するように、まるで芥(ごみ)を見るかのように冷たく兵士の遺体を見つめていた。
 彼の視線に気付いたのは幽谷だけだ。だが、この空間では咎めることも出来ない。


「夏侯惇……」


 弱々しい声で、彼は夏侯惇を呼ぶ。
 曹操の傷は、癒していなかった。関羽が請うままに、兵士の傷を全て癒していた為にその暇が無かったのだ。彼をと思った時には兵士は危篤状態で、曹操は兵士の最期を看取ると言って治療を拒んだ。
 深手を負っていながら兵士の最期を見届けた彼は、夏侯惇が返事をすると息も絶え絶えに命じた。


「その者の亡骸……丁重に…運ぶ…の…だ……」


 曹操は、そこで横に倒れた。


「曹操!」

「曹操様!!」

「ちい! すぐにお運びしろ!」


 曹操の身体を気遣いつつ肩を貸し、夏侯惇と夏侯淵は彼に呼びかける。
 曹操は歩くこともままならない。


「曹操! やっぱりあなた無理をしていたのね!?」

「無理だと……どういうことだ!」


 夏侯惇が関羽に噛みつかんばかりの勢いで質(ただ)す。


「曹操は毒矢を受けたの……。幽谷の血で解毒は出来たみたいだけど、傷は深くて、まだ癒えていなくて……」

「貴様! なぜそれを早く言わない! 夏侯淵、すぐに洛陽に戻るぞ!」


 血相を変えて、すぐに戻ろうとする二人を幽谷は無表情に見つめる。
 曹操の意識はまだあるようだ。退却に、口角を歪めている。悔しさが歪んで自嘲の笑みになった。
 彼自身が国に戻ることを決めると、関羽は幽谷の腕を掴んできた。


「関羽様」

「幽谷……」


 彼女らの後ろでは、兵士達が丁寧に亡くなった彼の遺体を持ち上げて運び出す。

 と、不意に曹操が夏侯惇達の腕から逃れ、縋るように関羽の腕を掴んできた。がくりと崩れた身体を関羽が支えた。
 幽谷は剥がそうかと思ったが、曹操の状態を考えると憚られた。


「テメッ! 何、姉貴の手掴んでんだよ!」

「私と共に……来い!」

「え……」


 張飛の声など聞こえていないかのように、曹操は鬼気迫る体で関羽に言った。

 関羽は瞠目する。


「お前は…将となる人間だ……! 私の下に来い…そして幾多の兵をお前が…率いる…のだ……」

「な、何を言ってるの……?」

「お前…には、強さ…だけでなく人を…惹く…力がある……! お前がいれば…我が悲願も成就される…であろう……」


 曹操には、もう関羽しか見えていなかった。


「関羽よ、お前が…欲しい……! 自尊心も…羞恥心もかなぐり捨てお前に請おう……!」


 私の下に来るのだ!
 強く言い放つ。

 関羽は大音声に驚いて身体をびくつかせた。

 彼の後ろでは夏侯惇と夏侯淵が曹操に声を荒げている。よもや曹操が関羽を将に求めるなど、思いも寄らなかったのだろう。

 だがそれは幽谷とて同じである。これ程までに、彼が関羽の武に執着していたなんて。


「わ、わたしは……」

「ざっけんな! 姉貴は猫族なんだ! 人間なんかのとこに行くわけねーだろ。ずっとオレらといんだよ! 離せ!!」

「っ、張飛様! いけません!」


 相手は怪我人だからと、怒りに任せて無理矢理剥がそうとする張飛を慌てて止める。
 曹操は身体が限界なのか、呻いてその場に崩れた。


「曹操!」

「曹操様! すぐに医者に見せなければ……! 急げ! 急ぐんだ!」


 曹操は夏侯惇達に抱えられ、関羽から離される。
 気を失う寸前、彼はもう一度関羽に手を伸ばした。

 それはただ、弱々しく宙を掻くだけだ。



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