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その子供の名前は泉沈(せんちん)と言った。自分で付けた名前だそうだ。
彼――――性別が分からないのでここではこう表記しておく――――は流される二人に合わせて水面を歩きながら話しかけてくる。
「ねえ、お姉さん。もしかして岸に向かって泳いでるの?」
「え、ええ……」
「じゃあ、助けてあげる。お姉さん僕と同じ四霊だから」
「四霊?」
久し振りにその名称を聞いた。
張角が言っていたそれだ。
困惑していると、泉沈はにこやかに手を伸ばしてくる。
「引っ張ってってあげる」
その手を取って良いものか。
逡巡したのは一瞬だ。
兵士が呻いたのを見て、幽谷はその手を握った。
泉沈は頷くと、一気に岸に向かって走り出した。疾走とも言える速さに、幽谷は慌てて待ったをかける。速度を落とすように頼むと、彼は快く了承してくれた。
「で、何処に行けば良いの?」
「近くに猫族の娘がいると思うのだけど……」
「猫族……あ、僕と同じ種族だね。分かったー」
これで大丈夫、なのだろうか。
彼女は、四凶だ。……いや、四霊か?
どちらが本当の名称なのか分からないが、幽谷と似た存在であるこの子供、水面を歩いているのは方術の一種か。
猫族に四凶が生まれるなんて聞いたことも無いが、まさかこの短期間に二人も四凶を見つけることになるとは思わなかった。
「あっ、見つけた」
「え? あ……」
気付けば岸は間近に迫っていた。右手の少し離れた場所に、関羽達はぐったりとしている。
そこで泉沈は幽谷の手を離した。もう必要は無いと判断したのだろう。
泉沈は彼らよりも先に岸に上がった。手を差し出し、兵士を軽々と持ち上げて――――後ろに放り投げた。
「何をするの!?」
「え? 僕何か間違ったことした?」
だってこれ人間でしょ?
きょとんとする泉沈に、幽谷は言葉を失う。
邪気が全く無い。自分のしたことが悪いとは思っていない風だった。
仕方なく、水から上がって兵士に歩み寄る。まだ意識はあった。
安堵し、胸の傷に手を押し当てる。温かな光がそこから放たれた。
見る見るうちに傷が塞がっていくのにほうと吐息を漏らすと、
「幽谷!」
関羽の声がした。
振り返りたいが、兵士の傷を癒すことを優先した。
「あ、あら……? あなたその目……?」
「僕は泉沈だよ。お姉さんは誰?」
「え、あ。わたしは関羽よ。どうしてこんなところにいるの?」
「黄河の上を散歩してたんだ。そうしたら、僕と同じ四霊のお姉さんが泳いでたのー」
笑いを含んだ声に関羽は困惑している。当たり前だ。話が分からないのだ。幽谷は実際目にしたから良いものの、普通黄河の上を散歩する人間なんていない。舟があるならともかく、ここに舟は一隻も無い。
「幽谷、この子は……」
「どうやら泉沈は、水の上を歩けるみたいです。実際に目にしたので間違いありません。それよりも関羽様、お怪我は?」
「あ、だ、大丈夫。ただ、曹操も兵士の一人も酷い怪我をしていて……」
「分かりました。この方の怪我も、もう大丈夫でしょうし、今のうちに彼らも治療しておきましょう。……立てますか?」
「あ、ああ……すまない」
兵士に肩を貸して歩き出すと、泉沈もてくてくと後をついてくる。どうやら幽谷を気に入っているらしい。彼はまだ子供だし、同じ四凶だから当然のことなのかもしれないけれど。
特に咎めもせずに幽谷は関羽に兵士の反対側を支えてもらいながら曹操達のいる場所へと向かう。
曹操達はぐったりとしていた。
幽谷と彼女が助けた兵士に気付くと彼はほうと吐息を漏らし、しかし、泉沈に柳眉を顰めた。
「幽谷、その子供は何だ。……十三支の四凶か?」
「ううん。四霊だよー。っていうか、僕は『じゅうざ』じゃなくて猫族だよ。お兄さん、見た目と違って頭悪いんだねえ」
「ちょ、ちょっと!」
「……この子には助けていただきました」
にこやかに毒を吐く泉沈に関羽が慌てる。幽谷は溜息をつきながら横たわって苦しむ兵士に手を当てた。非常に衰弱している。……毒、か?
まさか曹操にも毒が回っているのでは――――。
彼を振り返ろうとしたまさにその時である。
「いたぞ! 曹操軍だ!! 大将の曹操もいるぞ!!」
「!?」
「本当だ! よ、よし、俺が曹操を討つ! 討って武勲をあげてやる!!」
董卓軍兵士が現れた。数は少ないが、弱り切った曹操達に相手をする力は無いだろう。
幽谷は関羽に兵士を任せ、曹操を庇うように立った。
曹操が怪訝に幽谷を見上げる。
「先にお逃げ下さい。この中で満足に戦えるのは私だけでしょう」
「何だと?」
「そんな……危ないわ!」
「ねぇねぇ、僕はー?」
「あなたもひとまずは関羽様達について行きなさい」
「はーい」
この場にそぐわぬ無邪気な返事に幽谷は眉間に皺を寄せた。が、今は咎める暇も無い。
外套から匕首を取り出して、兵士の一人に肉迫する。首を斬って頭を掴み、黄河に落としてやった。
曹操達が動き出すのが気配で分かった。
振り返りはしない。
残る二人の兵士を睥睨(へいげい)し、外套から圏を取り出した。
「さあ、誰から死にたい?」
彼らを追わせはしない。
関羽を傷つけさせる訳にはいかない。
圏を投げつけ、また一人。
だが、その向こうに新たな董卓軍を見つけ、幽谷は舌を打った。
これは、少々時間がかかる。
彼らが伏兵に会っていないことを、彼女は強く願った。
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