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 黄河。
 霧が立ち込め、非常に視界が悪い。
 関羽が転ばぬようにと、幽谷は彼女の側を歩き周囲に気を配る。


「曹操様、ここから先はケイ陽です。黄河の向こうのケイ陽城にはすでに董卓軍が入っている模様」

「よし、まずは黄河を渡る。この朝霧に乗じて渡河するのだ」


 舟の準備が整い次第出陣。
 罠の可能性を示唆して注意を促し、曹操は兵士や武将に指示を飛ばす。

 本来ならば幽谷が先んじて対岸を探ってきたいが、広い黄河を渡って戻るのは時間を考えると無駄な行為だ。

 舟が造られるのを待ちながら。霧に霞む向こう岸を睨むように見据える。しかし、分からない。

 舟が完成すると、先陣を切ったのは夏侯惇と夏侯淵だ。
 なるべく水音も気配も殺し、渡河していく。

 幽谷はその間も周囲の様子へと意識を研ぎ澄ます。

 二人が何事も無く渡河し終えると、残りの兵士や猫族もそれに続いた。


「曹操様、残すは我々のみとなりました」


――――幽谷と関羽も、結局は最後まで残ってしまった。

 関羽の手を引きながら舟に先に乗る幽谷に、彼女は礼を言う。


「そう言えば、他の軍はいつ来るのかしら?」


 ぽつりと漏らす関羽に、幽谷は静かに声をかけた。


「追撃は我々のみです。他の軍は、洛陽に留まっております」

「え?」

「他の諸侯達は皆、この追撃には賛同せず洛陽に留まったのだ。結果こうして追撃に出たのは我が軍だけだ」

「でも、公孫賛様は洛陽の民を助けるために残ったのでしょう?」

「公孫賛はそうかもしれぬが、他の諸侯のほとんどは、我が身可愛さに洛陽に留まったのだ。袁紹などはその筆頭だな」


 呂布達もその内董卓のもとに合流する。
 それに、策を張られていれば危険極まる。追撃軍というのは、急ぐあまり周りへの注意が散漫になる傾向にあるのだ。曹操とて例外ではあるまい。
 人間は己が一番なのだ。

 関羽は愕然とした。


「そんな……! みんな同じ連合軍なのに董卓をこのままにしていいの? 自分の都合で洛陽の町を、そこに住む人々を勝手にするなんて、そんなこと許されていいの?」

「無論許されるはずもない。だから私はこうして奴を追うのだ」


 そう語る曹操の声は堅く低い。僅かに震えているのは抑え切れぬ怒りの現れか。


「まるで自分が神かのような所業……奴がこの国を蕩尽する前に誰かが鉄槌を下さねばならんのだ!」


 関羽が曹操を見上げる。思案しつつ、すっと目を細めた。


「曹操様、最後の六名全員乗りました」


 曹操は頷いた。


「うむ、急ぐぞ。皆が待っている」


 舟が、動き出す――――。



‡‡‡




――――静かだ。
 水を掻く櫂の音と、彼らの声だけが鼓膜を震わせる。


「もう河の真ん中あたりかしら。董卓軍の待ち伏せはなかったようね。よかったわ」

「……静かだ」

「そうね……。まだ日が明けて間もないからかしら?」

「それにしては不自然です。生き物が、いません」


 朝でもこれくらいの明るさならば鳥が鳴いている筈。
 幽谷は外套の裏に手をやった。


「幽谷」


 曹操が名を呼ぶのに幽谷は短く頷いた。

 鳥などの野性動物でない気配が、する。
 潜んだそれは、向こう岸のもの。

 刹那――――。

 霧の中から光。
 まるで横殴りの雨のように、無数の矢が降り注いだ!


「奇襲です!!」


 関羽に刺さりかけた矢を匕首で弾き、幽谷は叫ぶ。

 この朝霧の中でこんなに正確に狙ってくるなんて……。
 圧倒的に不利だ。

 舌打ちした直後、曹操に矢が突き刺さる。


「曹操! 大丈夫!?」

「してやられたな……。夏侯惇と……夏侯淵は気付かぬか……!」

「曹操様! 私の後ろに!」

「関羽様は私の後ろに――――」

「ぐああああああ!」

「ああ……!」


 曹操の前に立った兵士の腹に矢が深々と突き刺さる。
 このままでは相手の為すがままだ。

 関羽は咄嗟に叫んだ。


「曹操! 舟から降りるわよ!」

「何!?」

「みんなも降りるわよ!」


 驚く曹操の腕を掴み関羽は舟を飛び降りる。水飛沫が立った。



‡‡‡




 水の中。
 幽谷は同時に飛び込んだ関羽達の姿を捜した。
 すると泡立つ視界の端に関羽の服が見えた。

 そちらに手を伸ばそうとした時、曹操の姿も見える。

 しかし兵士の姿は無い。
 では何処だ――――?
 周囲を見渡せば川の流れに抗えず、自分達から急速に離れて行く兵士が一人。……大量の血の帯を引いている。
 幽谷は関羽が曹操の身体を抱えたのを見、一旦顔を水から出して息を吸って、再び潜り込んだ。手や足を使って兵士を追いかける。

 流れに乗れば簡単に追いつけた。
 だが問題はどうやって陸に上がるかだ。
 急な流れに、重い鎧をまとう兵士の身体を抱えながら泳ぐのは、幽谷でも至難の業だ。

 それでも、幽谷は兵士の身体をしっかりと抱え、顔を水から出させる。
 兵士は水を吐き出し激しく咳込んだ。彼の呼吸が整うのを待って、幽谷は岸を目指して泳ぎ出す。まずは力で傷を癒してやりたいと思ったが、その前に岸に到達することを優先すべきだ。このままでは流されてしまう。


「意識を保つことに専念して下さい。私が岸までお連れ致します」

「う……あ……」


 ……危ない。
 幽谷は目を細める。傷は幽谷の思うよりかなり深いようだ。
 急がねばならぬ。
 舌打ちし、片手で大きく水を掻いた。

 しかし岸は一向に近付かない。
 むしろ、遠退いているような気が――――。


「――――お姉さんとお兄さん、何してるの?」

「え?」


 不意に降ってきた声に、幽谷は瞠目する。

 すると視界に靴が入ってきた。
 水面をしっかりと《踏み締める》、靴。
 我が目を疑った。


「な……?」

「ねえ、何してるの? 遊んでるの? でもここ、流れが速いから、下手したら二人共死んじゃうよ?」


 視線を上げると、また驚愕する。

 頭にぴんと立った猫の耳。
 それに加え、金の目と、黒の目。



 猫族の四凶、だ――――。



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