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「貴様、まさか袁紹のもとに行こうと考えていたのではあるまいな!」


 憤懣(ふんまん)やるかたなしと言わんばかりに夏侯惇は幽谷を怒鳴りつけた。

 幽谷は困惑したように首を僅かに傾け夏侯惇の言葉を聞いていた。
 勿論彼女は袁紹の下に行こうなどと考えていてはいない。しかしそれを言おうと思っても、猫族のことを思うと、どうしても口を噤んでしまう。

 そんな彼女の態度に、夏侯惇が気付いていない筈もない。気付いているからこそ、彼女のその腑抜けた態度が気に食わなかった。苛立って仕方がなかった。


「貴様の武は諸侯が欲しがっているだろう。十三支の命が惜しければ、軽率な行動は慎め!」


 十三支の命を出せば少しは変わるかと思ってのことだったが、彼女はぼんやりとして右の上腕を掴んだまま思案でもしているかのようだった。さっきまでは夏侯惇の言葉に耳を傾けていたのに、もう聞いていない。
 夏侯惇は舌打ちした。


「右腕がどうかしたのか」

「っあ……いえ、何でもありません」


 ようやくこちらに戻ってきたと思えば、早く立ち去りたいとでも言いたげな顔で視線を横に流す。あからさまな態度に苛立ちは更に増幅した。

 幽谷の手を無理矢理引き剥がして彼女がずっと掴んでいたそこを鷲掴む。

 途端――――。


「っ触るな!!」


 幽谷はらしくなく声を荒げた。警戒を剥き出しにして夏侯惇を睨みつけ、手を振り払う。

 夏侯惇は驚いたように手を離した。だが手に残ったその《感触》に困惑する。
 硬い何かがあった。はっきりとは分からなかったが、石のように硬い何かが、そこにあったのだ。

 幽谷はひゅっと息を吸い、その場から駆け出した。


「っ、待て!!」


 彼女は、立ち止まらなかった。



‡‡‡




 よりにもよって、人間に触られた。
 幽谷は陣屋を飛び出してまたあの泉に戻ってきていた。
 それに気が付いて溜息をつく。

 どうしても水場に近寄ってしまうのは、傷を癒せるからだろうか。
 仕方なく木に寄りかかって右腕を押さえた。
 そこには布越しに硬い感触がある。外套の上から掴んでも、意外にはっきりと分かる程。
 これをどうやって隠そうか。

 ぶつかるだけでも軽装の人間には知られてしまうのではないだろうか。
 そんな不安が頭に浮かび、胸を重くする。

 重い溜息をついた。

 そんな折だ。


「おっ、ここにいた!」


 ひょこっと近くの影から現れた。
 張飛だ。

 幽谷は驚いて咄嗟に立ち上がって彼から距離を取る。

 張飛は不審がった。


「どうしたんだよ。おっちゃんも姉貴も探してたぜ? 何か右腕を気にしてたって――――」

「なっ、何でもありません」


 幽谷はじりじりと後退して右腕を隠そうする。鱗を見られたくなかった。

 しかし張飛はより一層怪しんだ。大股に幽谷に近付いてくる。
 逃げようとした瞬間彼は幽谷に肉迫して右腕に当てられた左の手首を掴んだ。いつもなら裂けられる筈だろうに、反応が遅かった。


「何だよ、隠し事すんなって!」

「待っ――――」


 掴まれた。
 右腕を。
 途端に張飛は目を剥く。


「……は? な、何だこれ……」

「……っ」


 引き戻そうとすると張飛が手首を掴み直して袖を上げた。
 露わになる、虹色の鱗。
 張飛は顎を落とした。


「な……っ、こ、れ……!」


――――見られた。

 身体から力が抜けた。その場に座り込む。
 と張飛がそれを引き上げた。

 そして周囲を気にしながら袖を下ろすと、血相を変えて駆け出した。

 幽谷も走ることを余儀無くされる。彼が何処に行くかは分かっているが、幽谷は抵抗せずにだんまりと従っていた。

 張飛は陣屋に戻るなり、関羽の天幕に駆け込む。


「姉貴ー! 姉貴、大変だ!! 幽谷が!!」


 丁度天幕に戻ってきていたらしい関羽と、渋面を作った世平が驚いたように幽谷を見る。天幕の隅には、趙雲もいた。彼女を見るなり安堵していたが、彼女の様子に柳眉を顰めた。


「幽谷? 張飛もどうした」

「おっちゃん! 幽谷の右腕、何か変な風になってんだ!! 何かこう……カッチコチで!」

「……さっぱりわからねぇ。取り敢えず見せてみろ」


 世平が腕を掴むが、幽谷は右腕を掴んで拒絶する。
 それに、切羽詰まった風情の張飛が促すように名を呼んだ。それでも、彼女は離さない。俯いて、だんまりを決め込んでいる。

 すると、見かねた関羽が幽谷に歩み寄った。
 右腕を押さえる左手にそっと己の手を添えた。ぴくり、と震える。


「大丈夫よ、幽谷。ここにはわたしたち以外いないから。趙雲も、信用に足る人よ」


 そっと言い聞かせて、左手を優しく剥がす。抵抗は無かった。
 そして、袖を捲り上げ――――。


「え……」


 関羽は声を漏らした。

 幽谷の右上腕に張り付いた蛇のような、虹色の鱗。
 人ならざる変異に、一同は二の句が継げなくなってしまった。

 それに耐えかねて逃げ出そうとした彼女を、張飛が腕を掴んで阻む。


「四凶だから、か……」


 ようやっと、世平が声を漏らした。幽谷の鱗を触り、唸る。


「お前の様子がおかしかったのはこの所為だったのか。蛇のようにも見えるが……それにしちゃ硬ぇな。痛みはねぇのか?」

「……全く」

「そうか……。ああ、肌が変質してやがる。剥がすことは難しそうだ」

「幽谷、原因は分からないの? 心当たりとかは、無い?」


 幽谷は寸陰黙り込み、先に戻って泉に向かった時のことを話した。原因は分からないが、心当たりと言えばそれしか無い。
 泉から出てきたあの鱗のある手。あれに引き込まれた直後に鱗に気が付いたのだ。


「鱗の生えた手、か……原因かはまだはっきりとはしねぇが、関連があるとすればそれだろうな」

「どうするの? これ、広がっちゃったりない?」

「戦場に現れたとか言う、お前と同じ四凶に訊けば何か分からないかもしれねぇが……俺たちにはどうすることも出来ねぇ。状況も状況だ、このまま経過を見るしかねぇな。幽谷には申し訳ねぇが」


 ぽんと頭を撫でられ、幽谷は困惑する。
 誰一人として、気味悪がらないのだ。


「どうした、幽谷」

「いえ……何でも、ありません」


 どうして、彼らは怖がらないんだろう。



 彼らは、優しすぎる。



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