21
幽谷は猫族と合流はしなかった。
彼らよりも先に陣屋に戻り、肩の傷を治そうと泉へと向かう。
そこは変わらずに風に波をうち、空を、緑を鏡のように映し出す。
浅い場所から服を着たまま浸かり、数歩歩く。
水面に映る自分の顔を見下ろし、両の目元に触れた。勿論、手は震えている。
四凶とは何だ?
化け物だとするなら、何故生まれるのか?
目覚めるとは何なのか……?
犀煉は四凶について、何を知っているのか。
そこに、呂布が関係している?
嗚呼、分からない。
このまま猫族の傍にいて良いものか……怖い。
怖がらせてしまっているだろうし、自分自身得体が知れないのに傍にいれない。
ふと、右手を眼球に伸ばした。
抉り取っても水に浸かれば治ってしまう。
それでも、今はこの目が気持ち悪くて仕方がなかった。
――――刹那である。
幽谷を映し出した水面が不自然に揺らいだかと思えば、何かが飛び出してきた!
それは手のようで、幽谷の首を掴むと抗いきれない剛力で水の中へ引き込んだ。幽谷が本気で抵抗しても無駄だった。
肺に水が入り、苦しくてもがく。水に浸ければ傷は治るが、人間と同じで息は出来ない。息が出来なければ、死ぬ。
が、意識が飛びそうになった瞬間、首を拘束する力が急に和らいだ。
その隙に顔を水から出し、激しく咳き込む。縁にぐったり寄りかかって咳を繰り返した。
何、今の手……。
一瞬だけ見えた手の姿を思い出し、幽谷はひとまず泉から上がる。
あの手……鱗のような物が生えていたような気がする。
昨日はあんなものいなかった筈だ。
茫然と泉を見下ろす幽谷に、水面は波紋が徐々に収まっていく。何事も無かったかのように静まっていく水面に、息を整えながら不穏に胸を押さえる。
肩の傷は、今の出来事で水に浸かった為に治ってしまった。震えも、もう無い。
「今の、は……」
……不意に。
がさりと右の上腕に妙な感覚を覚えた。
幽谷は袖を上げ、端が裂けんばかりに目を剥いた。
「な……!?」
絶句。
上腕の一部、が。
硬い鱗に覆われていたのだ。
それはうっすらと虹色に輝いている。
まるで肌が変質したかのように鱗は生え、剥がそうとしても強烈な痛みを伴った。
その鱗は紛れもなく、己の一部だった。
幽谷は、更に自分を恐れた。
‡‡‡
幽谷はふらふらとまろぶように陣屋へ戻った。あの泉にいては、危険だと判断したのだ。
ぐっしょりとずぶ濡れで髪からも水を滴らせた彼女は右上腕を押さえ、無表情に地面を見下ろして歩く。
と、それを劉備が見つけ、にこやかに彼女に駆け寄った。
だが幽谷の様子がおかしいことに気が付くと足を止め、不安そうに彼女を見上げる。
幽谷もそこでようやく劉備に気が付くと足を止めて気まずそうに頭を下げる。上腕は掴んだままだ。
「幽谷? 肩いたいの?」
「……いえ、何でもありません。どうか、お気になさらず」
「でも、でも、幽谷、いたそうだよ?」
「本当に、大丈夫ですから」
今はとにかく、誰とも話していたくなかった。誰にも鱗を知られたくなかった。
早足に劉備から離れると、世平と擦れ違う。呼び止められるが、構ってはいられなかった。
逃げるように彼らから離れた。
陣屋の中を大股で歩く彼女は、酷く目を引いていた。先の戦いでの異常な殺戮の為である。あの行動が、兵士達を震え上がらせ、将達の関心を引いているのだった。
が、今の彼女は非常に混乱しており、それに気付く様子は全く無い。如何にこの右腕の異変を隠し通すか、それで頭が一杯だった。
それも災いし、彼女は天幕の影から現れた人間とぶつかってしまう。
「あっ」
「失礼。……と、あなたは十三支の四凶、でしたか」
衝撃で数歩後退すると、柔らかな声が耳に届いた。
俯いていた顔を上げれば、相手は袁紹の二虎将軍が一人、顔良であった。
幽谷は謝罪し、深々と頭を下げる。
しかし、内心では舌打ちする。誰にも会いたくないのに、こんなところで人にぶつかってしまうなんて。
「随分と濡れておられる。水遊びでも?」
「いえ、身体を休ませようと訪れた泉に落ちました故。お召し物を汚してしまい、まことに申し訳ございません」
強(あなが)ち間違ってもいない嘘を口にすると、彼は首に巻いた青い布を弄びつつくすくすと笑った。
「いいえ、構いません。戦での働き、大変見事でした。四凶が、かくも強い武を持った存在だとは思いませんでしたよ。いつか、手合わせを願いたいものです」
「……光栄です」
一礼し、早くその場を離れたい一心で歩き出す。
――――されど。
「お待ちなさい」
顔良は彼女を呼び止める。
怪訝に振り返ると、彼は懐から手拭いを取り出して幽谷に手渡す。それから何を思ったのか、その青い布を彼女の首に巻いた。
幽谷は眉根を寄せて彼を見た。
「これは一体……」
「これだけでも、身体を暖められるでしょう。髪もお拭きなさい。私は勿論、文醜も袁紹様も今後の貴女の活躍には大いに関心を寄せています。ここでぶつかったのも何かの縁、お貸ししましょう」
「しかし、私は四凶にございます。あなた方の評価が悪くなるかと」
「あなたもあの十三支の娘も、この度の戦いでは一番の功労者。ならば、卑しさに関係なく労うのは当然でしょう」
「は、はあ……」
穏やかな笑みでそう言われると、幽谷は更に困惑してしまう。
だが、袁紹にあまり良い印象を抱いていない彼女は、その部下にこのような借りを作って良いものかどうか思案した。これだって、幽谷――――ひいては猫族を懐柔する為のものなのかもしれないのだ。
考えあぐねていると不意に右から手が伸びて布を取り去られてしまう。
えっと思って首を巡らせると、そこには険しい顔をした夏侯惇がいた。
青い布を乱雑に畳んで顔良に押し返す。
「こいつらは曹操様の傘下だ」
キツく言って、幽谷の手を引いて歩き出す。
幽谷は突然のことに戸惑い、彼のなすがままに歩き出す。
顔良を見やると、彼は困ったように笑っていた。
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