16
張飛様が暴走した。
これが連合軍に広まれば、猫族が危険に晒されてしまう。
どうすれば良い?
どうすれば――――そうだ。
彼以上に自分が目立てば良い。
圧倒的な力を示して、牽制すれば、きっと。
猫族ではなく、自分が危険視される筈。
退治されるその時は、自分が猫族から離れれば大丈夫。
よしや彼らに恐怖されたとしても良い。彼らが守れるのなら自分は何だって出来る。いいや、何だってしてやろうではないか。
‡‡‡
関羽達は我が目を疑った。
これは現実なのか、夢なのか。
こんな惨劇、誰が作り出した?
「あ……ああ……!!」
関羽達の周りは真っ赤だった。
燃えているのではない。
夥(おびただ)しい血が大地を染め上げているのだ。
そこに猫族以外の者は立ってはいなかった。猫族と応戦していた董卓軍の全てが地に伏し、身体を痙攣させている。誰の顔を見ても、刹那に訪れた己の死を理解していなかった。
少し離れた場所に幽谷が立っている。
右手には匕首、左手には筆架叉。そのどちらもが血を滴らせていた。
されども幽谷自身は綺麗なままで。彼女がやったのだろうか、そう疑ってしまう程。
「幽谷……」
「……」
幽谷は答えない。無言のまま、関羽を振り返って微笑んだ。
そして、また姿を消す。
「待って幽谷!!」
主人の声は届かなかった。
‡‡‡
幽谷は駆け抜ける。
視界に映る兵士は漏らさず始末した。
中央を抜けて左翼や右翼からその殺戮を見られているなど、もう気にも留めていない。むしろそれで張飛のことを忘れてくれれば万々歳だ。
幽谷は一旦足を止めた。ぐしゃりと血溜まりを踏み、兵士達を見回す。
「死ね」
ただ一言言い放つ。
途端兵士達を駆け抜けた恐怖。それは本能的なものだ。生き物としての本能が、彼女は危険だと彼らの頭の中でけたたましく警鐘を鳴らす。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
殺サレル!!
「ひ――――ぎゃああぁぁぁ!!」
誰が叫んだのか。
悲鳴を合図に董卓軍兵士達は一斉に逃げ出した。
幽谷はそれを見下すように見つめ、筆架叉を投げ捨てた。外套に手を伸ばす。そこから取り出したのは飛ヒョウだ。
幽谷はそれを逃げる兵士に向かって投げつけた。容赦なく、全てを殺すつもりだった。
やりすぎでも良い。これで張飛から意識が離れるのなら。
ただ、昔に戻るだけだ。昔に戻って殺すだけ。
そしてお役目を果たして、還るのだ。
昔に、昔に。
お役目を果たさないと。
昔に。
役割ヲ果タセ。
戻るだけ。
デナクバ我ラニ存在意義ハ無イ。
「おい待て四凶!!」
肩を掴まれた瞬間、彼女は反射的にそちらに匕首を振るった。
相手はそれを咄嗟に避ける。
……誰だったか。
目を細めて相手を探るように見る。知っていたようだけれど、思い出せない。誰だ。
また肩を掴まれて、揺さぶられる。
「何をしている!? 貴様、曹操様の策を台無しにする気か?」
「そうそうの、策……、……ああ」
――――思い出した。
これは夏侯惇だ。
ああ、そうだ、中央で敵を抑えて右翼と左翼から敵を挟み込む策だったのだ。
どうでも良い。
幽谷は夏侯惇を無言で見つめ、視線を虎牢関に戻して歩き出そうとした。
しかし、双肩を掴まれているので歩けない。
「おい! どうしたというのだ!」
「……お役目を果たさねばなりませぬ故」
「お役目? 何だそれは」
訝しげに問われる。
決まっているだろうと答えかけて、あれ、となった。
お役目って……何だったかしら?
そう言えば、こんなことをしているのは何故だ?
――――猫族から人間の意識を逸らす為ではなかったか。
お役目って、何だ?
「聞いているのか!」
「お役目って……何でしょうか」
「は?」
夏侯惇はぐぐっと眉根を寄せた。
「ふざけているのか?」
「……いえ、本当に、今までの自分が何を考えて行動していたのか分からなくて……」
猫族から目を逸らすだけで良かった。
だのに、どうして……。
額に手を当てて幽谷は黙り込む。
がしかし――――。
「っ、退け!!」
「え――――」
不意に夏侯惇に押し倒されたのだ。
背中を強か打ち付けて一瞬だけ呼吸が詰まる。
何事かと視線を上げて、あっと声を漏らした。
幽谷に覆い被さる夏侯惇の向こう、二人の左に立って冷たく見下ろしている男がいた。
「煉……!」
彼が手を振り上げた瞬間、幽谷は夏侯惇を右に押し飛ばした。直後に肩に激痛。匕首が突き刺さったのである。
「つぅ……っ!」
「……目覚めかけたか」
「四凶!」
思案深く呟く犀煉に、夏侯惇は素早く立ち上がると剣を構えた。
幽谷も、肩の激痛に耐えながら立ち上がり犀煉を蹴りつける。危なげなく避けられてしまったが、距離は取れた。
匕首を抜いて放り捨てる。己の匕首を構えて腰を低くした。
犀煉は無表情に幽谷を見据え、
「猫族の女から、何も聞いていないようだな」
幽谷は片目を眇める。
「……関羽様と接触したの?」
「ああ。お前をこの戦いに出すなと言った。だが、聞き入れてもらえなかったようだ」
直後、犀煉の姿が消える。
幽谷が匕首を袈裟斬りに振り下ろせばかきんと何かを弾いた。
今度は彼女の真後ろに現れる。彼女が匕首を振り上げるその直前に、
「これ以上お前がこの戦いに出れば、お前の精神がどうなるか分からんぞ」
「私の、精神……?」
「お前がお前でなくなる。重ねた過去も、猫族すらも忘れ、お前は全く別の者になるのだ。それが嫌なら、今すぐ戻れ」
「何を――――」
「はああぁぁぁっ!!」
刹那、夏侯惇が犀煉に斬りかかった。
犀煉が離れ、夏侯惇が隣に並ぶ。きつい言葉で叱咤された。
「何をしている! 呆けている場合か!?」
「……すみません」
構え直し、犀煉と退治する。
犀煉は幽谷だけを見つめて離さない。夏侯惇のことなど警戒してもないし、眼中にも無いようだ。
「煉、それはどういう意味?」
「このままお前の辿る道は、決してお前の望むものではないと言うことだ。それが、その瞳を持つ者の行く先だ。ここで踏みとどまらなければ、お前は役目を果たさんとする内側から自我を消されるだろう」
意味が分からない。
その瞳を持つ者とは四凶のこと。だが、役目って何?
私が私でなくなる……猫族と、関羽様と過ごした過去も忘れてしまう?
幽谷は困惑する。
これは犀煉が嘘で自分に隙を作らせようとしているのか、はたまた真実を言っているのか。
「どうしてあなたがそんなことを……?」
「俺もお前と同じだからだ」
唐突に、犀煉が顔の半分を隠す前髪を耳にかける。
――――驚愕。
犀煉の隠された顔の左半分が露わになる。
そこには幾筋もの傷跡が重なり、それが集中する左目は――――翡翠の色を映し出していた。
「……四凶」
夏侯惇が、ぼそりと呟いた。
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