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 張飛様が暴走した。
 これが連合軍に広まれば、猫族が危険に晒されてしまう。

 どうすれば良い?
 どうすれば――――そうだ。



 彼以上に自分が目立てば良い。



 圧倒的な力を示して、牽制すれば、きっと。
 猫族ではなく、自分が危険視される筈。
 退治されるその時は、自分が猫族から離れれば大丈夫。
 よしや彼らに恐怖されたとしても良い。彼らが守れるのなら自分は何だって出来る。いいや、何だってしてやろうではないか。



‡‡‡




 関羽達は我が目を疑った。
 これは現実なのか、夢なのか。
 こんな惨劇、誰が作り出した?


「あ……ああ……!!」


 関羽達の周りは真っ赤だった。
 燃えているのではない。

 夥(おびただ)しい血が大地を染め上げているのだ。

 そこに猫族以外の者は立ってはいなかった。猫族と応戦していた董卓軍の全てが地に伏し、身体を痙攣させている。誰の顔を見ても、刹那に訪れた己の死を理解していなかった。

 少し離れた場所に幽谷が立っている。
 右手には匕首、左手には筆架叉。そのどちらもが血を滴らせていた。
 されども幽谷自身は綺麗なままで。彼女がやったのだろうか、そう疑ってしまう程。


「幽谷……」

「……」


 幽谷は答えない。無言のまま、関羽を振り返って微笑んだ。
 そして、また姿を消す。


「待って幽谷!!」


 主人の声は届かなかった。



‡‡‡




 幽谷は駆け抜ける。
 視界に映る兵士は漏らさず始末した。
 中央を抜けて左翼や右翼からその殺戮を見られているなど、もう気にも留めていない。むしろそれで張飛のことを忘れてくれれば万々歳だ。

 幽谷は一旦足を止めた。ぐしゃりと血溜まりを踏み、兵士達を見回す。


「死ね」


 ただ一言言い放つ。

 途端兵士達を駆け抜けた恐怖。それは本能的なものだ。生き物としての本能が、彼女は危険だと彼らの頭の中でけたたましく警鐘を鳴らす。

 逃げろ。
 逃げろ。
 逃げろ。

 殺サレル!!


「ひ――――ぎゃああぁぁぁ!!」


 誰が叫んだのか。
 悲鳴を合図に董卓軍兵士達は一斉に逃げ出した。

 幽谷はそれを見下すように見つめ、筆架叉を投げ捨てた。外套に手を伸ばす。そこから取り出したのは飛ヒョウだ。
 幽谷はそれを逃げる兵士に向かって投げつけた。容赦なく、全てを殺すつもりだった。
 やりすぎでも良い。これで張飛から意識が離れるのなら。

 ただ、昔に戻るだけだ。昔に戻って殺すだけ。

 そしてお役目を果たして、還るのだ。

 昔に、昔に。

 お役目を果たさないと。

 昔に。

 役割ヲ果タセ。

 戻るだけ。

 デナクバ我ラニ存在意義ハ無イ。


「おい待て四凶!!」


 肩を掴まれた瞬間、彼女は反射的にそちらに匕首を振るった。
 相手はそれを咄嗟に避ける。

 ……誰だったか。
 目を細めて相手を探るように見る。知っていたようだけれど、思い出せない。誰だ。
 また肩を掴まれて、揺さぶられる。


「何をしている!? 貴様、曹操様の策を台無しにする気か?」

「そうそうの、策……、……ああ」


――――思い出した。
 これは夏侯惇だ。
 ああ、そうだ、中央で敵を抑えて右翼と左翼から敵を挟み込む策だったのだ。

 どうでも良い。

 幽谷は夏侯惇を無言で見つめ、視線を虎牢関に戻して歩き出そうとした。
 しかし、双肩を掴まれているので歩けない。


「おい! どうしたというのだ!」

「……お役目を果たさねばなりませぬ故」

「お役目? 何だそれは」


 訝しげに問われる。

 決まっているだろうと答えかけて、あれ、となった。

 お役目って……何だったかしら?

 そう言えば、こんなことをしているのは何故だ?

――――猫族から人間の意識を逸らす為ではなかったか。

 お役目って、何だ?


「聞いているのか!」

「お役目って……何でしょうか」

「は?」


 夏侯惇はぐぐっと眉根を寄せた。


「ふざけているのか?」

「……いえ、本当に、今までの自分が何を考えて行動していたのか分からなくて……」


 猫族から目を逸らすだけで良かった。
 だのに、どうして……。
 額に手を当てて幽谷は黙り込む。

 がしかし――――。


「っ、退け!!」

「え――――」


 不意に夏侯惇に押し倒されたのだ。
 背中を強か打ち付けて一瞬だけ呼吸が詰まる。

 何事かと視線を上げて、あっと声を漏らした。

 幽谷に覆い被さる夏侯惇の向こう、二人の左に立って冷たく見下ろしている男がいた。


「煉……!」


 彼が手を振り上げた瞬間、幽谷は夏侯惇を右に押し飛ばした。直後に肩に激痛。匕首が突き刺さったのである。


「つぅ……っ!」

「……目覚めかけたか」

「四凶!」


 思案深く呟く犀煉に、夏侯惇は素早く立ち上がると剣を構えた。

 幽谷も、肩の激痛に耐えながら立ち上がり犀煉を蹴りつける。危なげなく避けられてしまったが、距離は取れた。
 匕首を抜いて放り捨てる。己の匕首を構えて腰を低くした。

 犀煉は無表情に幽谷を見据え、


「猫族の女から、何も聞いていないようだな」


 幽谷は片目を眇める。


「……関羽様と接触したの?」

「ああ。お前をこの戦いに出すなと言った。だが、聞き入れてもらえなかったようだ」


 直後、犀煉の姿が消える。
 幽谷が匕首を袈裟斬りに振り下ろせばかきんと何かを弾いた。

 今度は彼女の真後ろに現れる。彼女が匕首を振り上げるその直前に、


「これ以上お前がこの戦いに出れば、お前の精神がどうなるか分からんぞ」

「私の、精神……?」

「お前がお前でなくなる。重ねた過去も、猫族すらも忘れ、お前は全く別の者になるのだ。それが嫌なら、今すぐ戻れ」

「何を――――」

「はああぁぁぁっ!!」


 刹那、夏侯惇が犀煉に斬りかかった。

 犀煉が離れ、夏侯惇が隣に並ぶ。きつい言葉で叱咤された。


「何をしている! 呆けている場合か!?」

「……すみません」


 構え直し、犀煉と退治する。
 犀煉は幽谷だけを見つめて離さない。夏侯惇のことなど警戒してもないし、眼中にも無いようだ。


「煉、それはどういう意味?」

「このままお前の辿る道は、決してお前の望むものではないと言うことだ。それが、その瞳を持つ者の行く先だ。ここで踏みとどまらなければ、お前は役目を果たさんとする内側から自我を消されるだろう」


 意味が分からない。
 その瞳を持つ者とは四凶のこと。だが、役目って何?
 私が私でなくなる……猫族と、関羽様と過ごした過去も忘れてしまう?
 幽谷は困惑する。
 これは犀煉が嘘で自分に隙を作らせようとしているのか、はたまた真実を言っているのか。


「どうしてあなたがそんなことを……?」

「俺もお前と同じだからだ」


 唐突に、犀煉が顔の半分を隠す前髪を耳にかける。


――――驚愕。


 犀煉の隠された顔の左半分が露わになる。
 そこには幾筋もの傷跡が重なり、それが集中する左目は――――翡翠の色を映し出していた。


「……四凶」


 夏侯惇が、ぼそりと呟いた。



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