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幽谷が目覚めたのは、見知らぬ家屋の寝台だった。
霞(かすみ)がかった意識と朧(おぼろ)な記憶に、全身の激痛……ただ一つ分かるのは、自分は死ねなかったということだ。
長い溜息をついて寝台から降りて立つと、力が入らずにその場に倒れ込んでしまった。
その時になって気付いたが、彼女は何故か夜着をまとっている。
一体誰が……。
訝っていると、不意に部屋の扉が開かれて白い生き物が顔を出した。銀髪に猫の耳。金色の瞳をした愛くるしいかんばせの少年である。
その少年に見覚えがあった。
それをきっかけに記憶が鮮明に蘇る。
そうだ。
私は林の中、崖の上で気を失って、目覚めたら彼がいたのだ。猫族の彼が。
それからその場を離れようとすると少年は彼女を止めようとし、誤って足を踏み外してしまった。
幽谷が咄嗟に庇って下敷きとなり、また気絶し、今に至るのだろう。
できれば、あのまま放置してもらいたかったのだが。
助けを呼んだのだろう少年を僅かに恨めしく思いながら、幽谷は口を開いた。
「あの……」
「おはよう!」
「は?」
少年はまったき純粋な笑顔で挨拶を言い放ち、ばたばたと部屋を後にしてしまった。
結局不発に終わった幽谷の言葉に、また溜息が漏れた。
‡‡‡
「良かった、起きたのね」
白い少年が連れてきたのは、髪の長い少女と壮年の男性だった。
幽谷の双眸に驚く素振りはあったのだが、男性は立ち上がれないでいる彼女を抱き上げて寝台に座らせてくれた。
「あの……」
「まずは、礼を言わせてくれ。俺達の長を助けてくれたこと、感謝する」
長?
自分が助けたのはただの猫族の少年だった筈だ。長なんて助けた覚えは無い。
眉を顰(ひそ)めると、男性は少年を見やり、彼が猫族の長なのだと言う。
「このような子供が長?」
「信じられないかも知れないがな。劉備様は俺達猫族の長だ」
にこにこと少女にくっつく少年――――劉備を見、幽谷は曖昧な相槌を返した。
「俺は張世平。こっちが――――」
「関羽よ。劉備を助けてくれてありがとう」
「……私は幽谷と申します。こちらこそ、お助けいただき、感謝のしようもございませぬ」
本当は死にたかったのだけれど。
心の中で付け加える。
「幽谷。お前の今後については、一族で話し合おうと思う。だがその前にいくつかお前に訊きたいことがある」
「……私が、四凶の饕餮であること、あの場所へは死にたくて辿り着いたということですか?」
ある程度予想していたことだ。
二人は驚いた。劉備だけが、きょとんとしていた。
「死にたいとはまた何で……」
「私が四凶だからです。劉備殿は分かりませぬが、お二人ならば四凶についてはご存じでしょう。私はいてはならない存在なのです。それ故誰にも迷惑にならない場所で死にたいと願いました。……よもや、猫族の方々がおられるなどとは夢にも思いませなんだが」
「ではどうしてその歳になって死にたいと? そういう考えがあるのなら、もっと若い頃に命を絶っていてもおかしくはないだろう」
幽谷は口を閉じた。
彼女が今まで生きながらえた理由……それは母親の願いだった。
つと、右手の腕輪を触る。翡翠で作られたそれの裏には、たった一言、『生きて』と彫られていた。急いで彫ったのだろう雑な文字だ。
それは、四凶に生まれた娘を殺さず、通りがかりの旅人に託した母の願い。
記憶にも無い彼女の願いに、しかし幽谷は応えようと思った。
暗殺一家に引き取られ、好きでもない殺しを、それこそ息をするかのように繰り返し強いられ続けても、生きようと抵抗した。
けれどもう、疲れてしまったのだ。
暗殺に初めて失敗して一家からの刺客を逆に殺した時、もう疲れたのだと天に訴えた。
生きていても、実感が無い。
殺すだけの人生に、一体何の意味があるのか分からなくなってしまった。
だから、生きることを放棄しようと思ったのだった。
そんな事情を話せず、幽谷はただ一言謝罪を述べた。
「……話したくないのなら、無理には聞かない。悪かったな」
「いえ……」
「関羽、俺は皆のもとに行くが、お前は劉備様と一緒にここで彼女の世話をしていてくれ」
「分かったわ」
幽谷は彼らを不思議そうに見る。
今まで四凶だと罵られ虐げられてきた。猫族だって四凶を怖がらない筈はない。だのに、この猫族はそんな様子を見せないのだ。
何故?
「無理はするな」と幽谷の肩を叩いて部屋を出ていく世平を、まるで珍獣でも見るかのような眼差しして見送った。
扉が閉められて静寂が訪れると、すぐに関羽が口を開いた。
「あなた、三日も寝ていたのよ」
「……そんなに」
そのまま死んでしまえば良かったのに。
「あまり偉そうなことは言えないけれど。死にたいなんて思っては駄目よ。嫌なことばかりだったかもしれないけれど、あなたが死んだら、きっと悲しむ人が――――」
「四凶に、そのような方がおられるとお思いで?」
そんな人物がいる筈がない。
私は誰からも疎まれて生きてきた。ずっと独りだった。四凶の私にそんなお優しい人間がいるなどと有り得ない。
そう言うと、関羽は悲しげに眉尻を下げた。
と、
「幽谷、ひとりぼっちなの?」
劉備が首を傾げた。幽谷が答えないでいると彼は笑って、
「じゃあね、ここにいていいよ」
「劉備!」
「ここね、みーんないっしょなの。だから、ここにいれば、さびしくないよね」
「……」
関羽を見やれば、彼女は苦笑混じりに劉備を止める様子も無く眺めていた。
何故止めてくれない。
「……先程にも申しました通り、私は四凶です。忌み嫌われる私が猫族の方々にご迷惑をおかけするワケには参りません」
「……いっしょ、やなの?」
「いや、ですからそういった私の意思に関係無く……」
「じゃあ、いっしょがいい?」
「…………それは、受け入れて下さる方がおられるのであらば嬉しくは思いますが……」
「うん。じゃあみーんな、いっしょ」
「だから……!」
話が進まない。
話がまとまらない。
そんな状態で結構大事なことが決まったような気がする。
しかも決めたのは幼さが濃い、猫族の長だ。
幽谷はこめかみを押さえた。
それに、関羽は笑った。
「でもずっとじゃなくても良いから、この村にいない? そうしたらきっと、死にたいなんて思わなくなるかも」
「……そういったことをお二人で勝手に決めない方がよろしいのでは?」
今、世平達が話し合っているんじゃなかったか。
というかそもそも、猫族はこんな長で良いのだろうか。
何処までも純粋な劉備に、何となく、眩暈がした。
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