12
「趙雲。ここにいたのか」
そう言って現れたのは公孫賛である。
幽谷はすぐにその場を退いた。後ろに控え、気配を消しておく。
趙雲は慌てて起立して頭を下げた。
「公孫賛様。お側を離れてしまい、申し訳ありません」
「良い。気にするな。して、そなたがあの華雄を討ったという?」
「あ、はい。関羽と申します。こっちが……ってあれ? 幽谷?」
いつの間にか隣から消えた幽谷を探し、きょろきょろと周囲を見渡す。
しかし何処にも見当たらない。
幽谷は関羽を呼んだ。
「関羽様」
「幽谷、そこにいたの? 一体いつの間に……」
「つい先程です。四凶の私がいては話も出来ぬだろうと」
こうべを垂れると、公孫賛が幽谷を見やる。そして微笑んだ。
「そなたが幽谷か。成長した四凶を見たのは初めてだが、人と変わらぬのだな」
「……左様にございますか」
この人の視線は、柔らかい。好奇心なんてものはなく、蔑むものでもない。
こんな人間、趙雲以外にもいるのか……。
彼を胡乱に見つめながらそんなことを思った。
関羽が隣に戻ろうと促すが、さすがに幽州の太守ともなれば、凶兆の四凶である幽谷が傍にいれば失礼に当たるだろう。
幽谷はやんわりと断った。
すると、何故か趙雲が隣にやってくる。
「……何ですか」
「いや、お前と少し話したいと思ってな」
「私は話したくありません」
嫌悪を滲ませて斬り捨てる。
趙雲は苦笑しながら「そう言うな」と肩を叩いた。
「それよりも、本当に大丈夫なのか? その紐の血は……」
「返り血ですのでお気になさらず」
にべもなく返せば会話はそこで終わってしまう。
そのまま沈黙であった方が非常に助かるのだが、折悪くそこへやってくる者が在った。
幽谷は片目を眇めた。
「よぉ、姉ちゃん。さっきはありがとな」
馬超だ。
「……はあ」
礼を言われる意味が分からない。
四凶の裸を見た程度で、礼を言う程のものだろうか。
こてんと首を傾げると、馬超は幽谷の腰を抱こうと手を伸ばす。
が、その前に幽谷は横に退いて避けた。馬超から距離を取る。
馬超はにやにやとしながら手を引っ込めた。
「つれないねぇ」
「気安く触らないでいただけませんか」
「まぁまぁ。こっち来て酌してくれよ。むさっ苦しくて仕方がねぇんだ」
「私は女官ではないのですが」
余所当たれと言いたいが、そうなると確実に関羽になる。それだけは絶対に駄目だ。
しかしこの男――――すでに酒臭い――――に付き合っていたくはない。
幽谷は眉根を寄せて近寄ってくる馬超から逃げた。
関羽は公孫賛との会話で一杯いっぱいのようだ。太守だからと、失礼の無いように言葉を必死に選んでいる姿はとてもいじらしい。
――――いや、そんなことは今はどうでも良いのであって。
酔った勢いで強引に迫ってくる馬超に辟易すると、不意に趙雲が幽谷の肩を掴んで抱き寄せた。
ぞわりと嫌悪。
「すまないが、彼女が嫌がっている。その辺で許してもらえないか」
「何だよ。野郎にゃ興味無ぇ」
興が失せたと言わんばかりに舌打ちし、趙雲を睨みつける。
……ああ、何か面倒になってきた。
幽谷はこめかみをひきつらせて何処か遠くを見つめた。早くこの宴が終われば良いのにと願っても、まだまだ終わりそうに無い。
……気が遠くなりそうだった。
関羽が、彼女の生気の失せた目に気付いて慌てて止めに入るのは、少しばかり後のこと。
‡‡‡
「お帰りー……って、幽谷の目、死んでねぇ?」
「あ、はは……まあ色んなことがあって、疲れちゃったみたい」
幽谷を見、張飛達は関羽に問いかける。
関羽は苦笑混じりに肩をすくめた。
あらかじめ、世平達が暗器を取り上げておいて良かったと思う。でなければ、どうなるか分かったものではない。
げっそりとした幽谷は、抱きついてくる劉備の頭を撫でながら宙を眺めていた。
これは、誰の目からも相当危ないと明らかである。
「あー……取り敢えず、二人共今日はもう寝ろ」
「ええ。そうするわ」
「劉備様。関羽と幽谷を休ませましょう」
幽谷に抱きつく劉備の傍に屈み込み、世平は優しく語りかける。
劉備はすっと眉尻を下げた。
「……関羽たちと一緒にねたい」
「二人は、今日の戦でかなり疲弊しています。どうか、お聞き分け下さい」
「むー……分かった」
渋々と幽谷から離れ、劉備は寂しそうに関羽を見上げる。
関羽は彼の頭を優しく撫でて謝った。
「ごめんなさい、劉備。また今度ね」
「……うん。お休みなさい」
「お休みなさい」
「……お休みなさいませ」
幽谷のぎこちない一礼にはもはや苦笑しか出てこない。宴で一体何が遭ったんだろうか。
関羽が幽谷の手を引いて天幕を出て行った後、張飛は関定と蘇双を呼んだ。
「何が遭ったんだろうな、幽谷」
「さあ……四凶だからと蔑まれたって、あんな風にはならないしね」
「……まさか!」
何かを閃いたかのように関定が声を張り上げる。
蘇双は胡乱げに彼を見やった。
「……期待はしないけど、何?」
「幽谷って黙ってれば綺麗なんだし、男に言い寄られたとか!」
「「有り得ない」」
即座に斬り捨てられた。
関定はがくっと肩を落とす。
幽谷は四凶だし、いつも無表情だ。戦功を上げた関羽と違い、幽谷に近付く人間が果たしているだろうか? ――――いいや、いない。
趙雲などのことを知らぬ張飛と蘇双は断言する。
幽谷が優しいのは、今では猫族皆が知っている。頑張りすぎる関羽と同じくらい、自身を大事にしない彼女を案ずるのは猫族だけだ。
されど人間に、そんな彼女を解する者はいない。
言い寄る男なんている筈がないのだ。
そう言って頷き合う彼らを見て、世平は顎を撫でながら溜息をつく。
「それはともかく。関羽が諸侯から注目されたとなると、必然的に幽谷も見られることになる。あいつの武は関羽以上だ。おまけに方術も使える。あの二人の武力は……咽から手が出る程に欲しいだろうな。曹操も、あいつの力を見ればますます二人を手放したがらなくなる」
「……それを考えると、頭が痛いね」
甥の言葉に世平は頷いた。
ああ、本当に頭が痛い。
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