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「趙雲。ここにいたのか」


 そう言って現れたのは公孫賛である。
 幽谷はすぐにその場を退いた。後ろに控え、気配を消しておく。

 趙雲は慌てて起立して頭を下げた。


「公孫賛様。お側を離れてしまい、申し訳ありません」

「良い。気にするな。して、そなたがあの華雄を討ったという?」

「あ、はい。関羽と申します。こっちが……ってあれ? 幽谷?」


 いつの間にか隣から消えた幽谷を探し、きょろきょろと周囲を見渡す。
 しかし何処にも見当たらない。

 幽谷は関羽を呼んだ。


「関羽様」

「幽谷、そこにいたの? 一体いつの間に……」

「つい先程です。四凶の私がいては話も出来ぬだろうと」


 こうべを垂れると、公孫賛が幽谷を見やる。そして微笑んだ。


「そなたが幽谷か。成長した四凶を見たのは初めてだが、人と変わらぬのだな」

「……左様にございますか」


 この人の視線は、柔らかい。好奇心なんてものはなく、蔑むものでもない。
 こんな人間、趙雲以外にもいるのか……。
 彼を胡乱に見つめながらそんなことを思った。

 関羽が隣に戻ろうと促すが、さすがに幽州の太守ともなれば、凶兆の四凶である幽谷が傍にいれば失礼に当たるだろう。
 幽谷はやんわりと断った。

 すると、何故か趙雲が隣にやってくる。


「……何ですか」

「いや、お前と少し話したいと思ってな」

「私は話したくありません」


 嫌悪を滲ませて斬り捨てる。

 趙雲は苦笑しながら「そう言うな」と肩を叩いた。


「それよりも、本当に大丈夫なのか? その紐の血は……」

「返り血ですのでお気になさらず」


 にべもなく返せば会話はそこで終わってしまう。

 そのまま沈黙であった方が非常に助かるのだが、折悪くそこへやってくる者が在った。

 幽谷は片目を眇めた。


「よぉ、姉ちゃん。さっきはありがとな」


 馬超だ。


「……はあ」


 礼を言われる意味が分からない。
 四凶の裸を見た程度で、礼を言う程のものだろうか。
 こてんと首を傾げると、馬超は幽谷の腰を抱こうと手を伸ばす。

 が、その前に幽谷は横に退いて避けた。馬超から距離を取る。

 馬超はにやにやとしながら手を引っ込めた。


「つれないねぇ」

「気安く触らないでいただけませんか」

「まぁまぁ。こっち来て酌してくれよ。むさっ苦しくて仕方がねぇんだ」

「私は女官ではないのですが」


 余所当たれと言いたいが、そうなると確実に関羽になる。それだけは絶対に駄目だ。
 しかしこの男――――すでに酒臭い――――に付き合っていたくはない。

 幽谷は眉根を寄せて近寄ってくる馬超から逃げた。

 関羽は公孫賛との会話で一杯いっぱいのようだ。太守だからと、失礼の無いように言葉を必死に選んでいる姿はとてもいじらしい。
――――いや、そんなことは今はどうでも良いのであって。

 酔った勢いで強引に迫ってくる馬超に辟易すると、不意に趙雲が幽谷の肩を掴んで抱き寄せた。

 ぞわりと嫌悪。


「すまないが、彼女が嫌がっている。その辺で許してもらえないか」

「何だよ。野郎にゃ興味無ぇ」


 興が失せたと言わんばかりに舌打ちし、趙雲を睨みつける。

 ……ああ、何か面倒になってきた。
 幽谷はこめかみをひきつらせて何処か遠くを見つめた。早くこの宴が終われば良いのにと願っても、まだまだ終わりそうに無い。
 ……気が遠くなりそうだった。



 関羽が、彼女の生気の失せた目に気付いて慌てて止めに入るのは、少しばかり後のこと。



‡‡‡




「お帰りー……って、幽谷の目、死んでねぇ?」

「あ、はは……まあ色んなことがあって、疲れちゃったみたい」


 幽谷を見、張飛達は関羽に問いかける。
 関羽は苦笑混じりに肩をすくめた。
 あらかじめ、世平達が暗器を取り上げておいて良かったと思う。でなければ、どうなるか分かったものではない。

 げっそりとした幽谷は、抱きついてくる劉備の頭を撫でながら宙を眺めていた。
 これは、誰の目からも相当危ないと明らかである。


「あー……取り敢えず、二人共今日はもう寝ろ」

「ええ。そうするわ」

「劉備様。関羽と幽谷を休ませましょう」


 幽谷に抱きつく劉備の傍に屈み込み、世平は優しく語りかける。

 劉備はすっと眉尻を下げた。


「……関羽たちと一緒にねたい」

「二人は、今日の戦でかなり疲弊しています。どうか、お聞き分け下さい」

「むー……分かった」


 渋々と幽谷から離れ、劉備は寂しそうに関羽を見上げる。

 関羽は彼の頭を優しく撫でて謝った。


「ごめんなさい、劉備。また今度ね」

「……うん。お休みなさい」

「お休みなさい」

「……お休みなさいませ」


 幽谷のぎこちない一礼にはもはや苦笑しか出てこない。宴で一体何が遭ったんだろうか。
 関羽が幽谷の手を引いて天幕を出て行った後、張飛は関定と蘇双を呼んだ。


「何が遭ったんだろうな、幽谷」

「さあ……四凶だからと蔑まれたって、あんな風にはならないしね」

「……まさか!」


 何かを閃いたかのように関定が声を張り上げる。

 蘇双は胡乱げに彼を見やった。


「……期待はしないけど、何?」

「幽谷って黙ってれば綺麗なんだし、男に言い寄られたとか!」

「「有り得ない」」


 即座に斬り捨てられた。

 関定はがくっと肩を落とす。

 幽谷は四凶だし、いつも無表情だ。戦功を上げた関羽と違い、幽谷に近付く人間が果たしているだろうか? ――――いいや、いない。
 趙雲などのことを知らぬ張飛と蘇双は断言する。

 幽谷が優しいのは、今では猫族皆が知っている。頑張りすぎる関羽と同じくらい、自身を大事にしない彼女を案ずるのは猫族だけだ。
 されど人間に、そんな彼女を解する者はいない。
 言い寄る男なんている筈がないのだ。
 そう言って頷き合う彼らを見て、世平は顎を撫でながら溜息をつく。


「それはともかく。関羽が諸侯から注目されたとなると、必然的に幽谷も見られることになる。あいつの武は関羽以上だ。おまけに方術も使える。あの二人の武力は……咽から手が出る程に欲しいだろうな。曹操も、あいつの力を見ればますます二人を手放したがらなくなる」

「……それを考えると、頭が痛いね」


 甥の言葉に世平は頷いた。

 ああ、本当に頭が痛い。



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