「華雄なきシ水関は雑兵の集まり。一気に攻め落とすがいい」


 曹操の号令に、兵士達がシ水関へとどうとなだれ込む。
 堅牢な壁の向こうで、無数の悲鳴が上がった。
 幽谷は関羽に支えてもらいながら、三叉を抜き、夏侯淵に張ったものと同種の札を傷に貼り付けた。
 関羽は幽谷を案じるように、叱るように見上げる。

 そんな二人に、曹操は満足そうな笑みを浮かべるのだ。


「これで残すは虎牢関のみだ。よくやった。私の期待どおりの働きだ」

「あなたに言うとおり華雄は討ったわ。さっきの言葉を取り消して……!」


 曹操は、頷いた。

 関羽は肩から力を抜き、吐息を漏らす。


「……みんなのところに戻るわ。幽谷、大丈夫?」

「はい。ですが、関羽様。少々お待ち下さい」


 関羽から離れ、凄絶な痛みに耐えながら夏侯淵の前に立った。

 それから彼が何かを言う前に傷に手を当て光を放った。それは夏侯淵の傷に浸透していった。


「なっ」

「貴様! 夏侯淵に何をしている!」

「あっ、ま、待って! 幽谷は夏侯淵の傷を治しているのよ」


 引き剥がそうとする夏侯惇を関羽が慌てて止める。
 その間にも、夏侯淵の表情から苦痛の色が消えていった。


「痛みが、消えていく……!」

「本当か、夏侯淵」

「は、はい……曹操様」

「――――もう、よろしいでしょう」


 幽谷が手を離して札を剥がせば、そこには元の綺麗な肌が。
 夏侯惇が驚いて夏侯淵の腹を触って確かめる。夏侯淵に痛がる素振りは見えなかった。


「あれだけの傷が治っている……!」

「では……私はこれにて失礼致しま、……っ」


 頭を下げようとしたが、曹操が肩を掴んで止めさせる。


「……何でしょう」

「その状態で、十三支のもとまで保つのか?」

「保たせます」


 曹操は目を細め、不意に幽谷の傷の周りを抓った。加減など一切していない。

 幽谷は目を剥いた。
 札が、はらりと剥がれ、反動のようにぼたぼたと地面にこぼれる。


「あ……っ!」

「幽谷!!」


 幽谷はその場に座り込む。
 腹を押さえうずくまった。

 すぐに懐から札を取り出すと、関羽が貼ってくれた。


「何をするの!?」

「その怪我では、途中で気を失うだろう。兵の馬を貸す。それに乗せて運ぶが良い」

「っいえ……結構です」

「……曹操様、オレが運びます」


 不意に言ったのは、夏侯淵である。
 幽谷と関羽は面食らった。夏侯惇もまた、彼の申し出に驚きを隠せないでいる。

 夏侯淵をまじまじと見、怪しんだ。

 彼は二人から顔を逸らし、至極悔しそうに顔を歪める。


「……これで、貸し借りは無しだ。分かったな」

「私はあなたに何かを貸した覚えがありません」

「……っ五月蠅い!」


 夏侯淵は幽谷に近付くと、その身体を抱き上げた。直後「軽い……」という呟きが聞こえた。


「夏侯淵、身体は良いのか」

「はい。もう痛みはありません。虎牢関でこそは、必ずや、十三支や四凶などよりも戦功を上げて見せます!」


 力強い答えに、曹操は頷いた。

 幽谷は未だに痛む傷に顔をしかめながら、夏侯淵を見つめる曹操の顔がいくらか弛んでいるのに目を細めた。



‡‡‡




 猫族の天幕近くで、夏侯淵とは別れた。
 関羽に支えてもらって世平達の集まる天幕に入ると、真っ先に劉備が駆け寄ってきた。それから、張飛。
 しかし関羽にもたれ掛かるようにして立つ幽谷の腹の傷を見るなり、さっと色を失うのだ。


「っぎゃー!! 幽谷がー!」

「落ち着け張飛! おい、幽谷大丈夫かよ!」

「張飛落ち着いて! あと関定も、大丈夫だから! 取り敢えず、まず幽谷を水に浸けてあげないと」

「ああ、それならここから近い場所に泉がある。俺が案内しよう」


 世平が腰を上げ、幽谷を抱き上げる。
 幽谷は小さく謝罪をし、呻いた。札には血止めも治癒効果もあるが、それでも幽谷にだって人並みの痛覚があるのだ。

 世平は関羽に頷きかけて、足早に天幕を出て行く。関羽も小走りに追い掛けた。

 それを見送りながら、劉備は張飛を見上げる。泣きそうに顔が歪んでいた。

 張飛もまた、顔を歪めていた。それが、彼の不安を更に煽った。


「張飛……」


 弱々しく呟くと、張飛ははっとして、慌てて笑顔を浮かべる。


「だ、大丈夫だって! 幽谷は水に浸ければ治るんだからよ。元気んなって帰ってくんの、待ってようぜ!」

「……ん」


 ぽふぽふと叩くように頭を撫でる彼に、劉備は小さく頷いた。



‡‡‡




 幽谷を、泉の浅いところに入れ、溺れないように座らせる。
 水に揉まれ札はすぐに剥がれてしまった。

 血が、広がる。

 しかし、幽谷は安堵したように吐息を漏らした。


「申し訳ありません。助かりました」

「良いのよ。でも、あの時受け止めようとしていたのに、どうしてそうしなかったの?」


 傷を見、関羽は問う。


「あの時私が避けていれば、関羽様の一閃は、華雄の首を捉えることは出来なかったでしょう。そう思ったまでのことです」

「けれど、だからといって……」


 幽谷は関羽の頭を撫で、苦笑した。


「もう終わったことなのですから」


 そう言うと、関羽はむっと眉根を寄せる。鼻を摘まれた。


「無茶しないでねって言ったじゃない!」

「……そうでしたね」


 確かにそんなことを言われた記憶もある。
 小さく頭を下げれば、今度は世平に頭を小突かれてしまった。


「何度も言うが、お前は無茶しすぎる。そうやって俺たちを守ろうとするな。自分をもっと大切にしろ」

「……大切にしていたつもりなのですが」


 だから、札を貼ったのだし……。
 それでも、彼らには大切にしていないと感じるのだろうか。
 幽谷は首を傾けた。


「……ったく、どうしてお前はそう……」

「ところで関羽様、世平様」

「何?」

「そろそろ血も止まって参りましたので、服を脱いでおきたいのですが」

「「……」」


 殴られた――――。



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