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夏侯淵の前から逃げた幽谷は、それからすぐに関羽と合流し、人間達の様子を見に陣屋の奥へと赴いた。
様子を見るに、一際大きい天幕から曹操を含め、様々な人間が出てくる。
丁度、軍議が終わったようだ。
「……本当に、明日からは戦が始まるんだわ」
ぼそりと関羽が呟くのに、幽谷は頷いた。
「なるべく諸侯には会わないように気をつけないとね」
「御意のままに」
そう言った、直後である。
背後から、近付いてくる気配を捉えた幽谷は、関羽よりも早く振り返り、相手を威嚇するように強く見据えた。
くすんだ銀の髪に褐色の肌。
猛々しいが、奔放な印象を与える男が、物珍しそうに幽谷と関羽を見つめていた。幽谷の睨みに怯んだ様子は無い。
「へえ、十三支とかっていう種族の女がいるとは聞いていたが、噂の嬢ちゃんにここで会えるたぁな」
「え?」
「嬢ちゃんたち、名は?」
関羽を背に庇い、幽谷は外套の下に手をやる。
彼女から不穏な空気を察した関羽は、慌てて名乗った。幽谷の名前も、一緒に。
男は笑い、頷いた。
「ほう、良い名だ。しかし驚いた。十三支なんて民族は初めて知ったが、女が戦場に出る習慣があるとはな。しかも嬢ちゃんたちのような上玉がこんなむさ苦しい幕舎にいるたぁな。少しは面白ぇことになりそうだ」
そこで、二人は顔を見合わせる。
初めて知ったということは、猫族を知らない?
人間なのに?
それにどうやらこの男、幽谷のことも十三支だと思っているらしい。四凶すら知らないと言うのか。
「わたしたち、猫族のことと、四凶のことを知らないんですか?」
関羽がそう問いかけると、男は首を傾げる。
「猫族? 四凶? 嬢ちゃんたちは十三支って一族じゃねぇのか?」
その様子に嘘は無い。
幽谷は男に頭を上げた。
「十三支というのは、関羽様達蔑む人間達が勝手に付けた別称です。本来は猫族という一族の方々です。それに加え私は四凶。こちらは人間でも猫族でもなく――――」
「……姉ちゃん」
「!」
不意に。
ずいっと顔を近付けられて幽谷は戸惑った。顔を僅かに引く。
男はにっと笑った。
「綺麗だとは思ってたが、近くで見ると更に綺麗な目ぇしてるじゃねえか」
「……は?」
頓狂な声を出した直後、腰を抱かれてぐいと引き寄せられる。
瞬間彼の首に匕首を押し当てたのは反射である。
男は驚いて目を瞠るが、口笛を鳴らし、面白そうに笑う。
その余裕の態度に幽谷は眉根を寄せた。
……気に食わない。
「関羽様すいません、この人を殺します」
「だ、駄目! 幽谷落ち着いて!」
振りかぶろうと匕首を一旦離す幽谷の腕を、関羽が掴んだ。
必死の体で止める彼女に、幽谷は舌打ちして匕首を降ろした。
男は幽谷を離し、にやにやと笑う。
「へぇ、意外に気が短ぇか。落とすのもなかなか楽しそうだ」
「……それ以上無駄口を叩くならば、男として役立たなくさせてくれましょうか」
「おっと、それは遠慮する」
両手を挙げて、男は軽い口調で謝ってくる。
しかし、ふと真面目な顔になって、
「しっかし、四凶に十三支ねえ……。漢帝国の奴らは俺たち以外の民族も受け入れる気はねぇってことか」
笑わせてくれるぜ。
吐き捨てるように言って、彼は黙り込む。
打って変わった態度の彼に、幽谷は関羽を振り返った。
「えっと……」
彼の言い様は、彼もまた、蔑まれる側だと示すようなものである。
怪訝に男を見やると、彼はそう言えばと再び笑みを浮かべた。
「俺は騎馬民族、馬一族の馬超だ。よろしくな」
馬一族……。
聞いたことはある。
確か、羌一族の血を引いているという、確証の無い噂があった筈だ。
「は、はい。よろしくお願いします。馬超さん」
「あーそんな固くなるなって。その馬超さんっていうむずがゆい呼び方も止めてくれ」
「ええ、分かったわ」
頭を下げながら、関羽はちらり、と馬超の姿を観察する。
するとそれに気付いたのか、馬超は関羽に笑いかけた。
「ははーん、俺の見てくれが珍しいって顔だな」
「あ、えっと……ごめんなさい。わたし、今までずっと幽州の奥地で暮らしてきたから……」
「俺たちは漢帝国の奴らとは違う。一生の大半を馬と共に大地を駆ける、自由の民族なんだ」
彼はそれから、すまなそうに関羽の頭を撫でた。
直後、幽谷がその手を剥がす。
「気安く我が主に触れないで下さい」
「……あー、悪い。……知らなかったとは言え十三支なんて呼び方して、悪かったな」
「気にしないで。知らなかったんだから、仕方ないもの。それとね、猫族でも女性が全員戦場に来るわけじゃないの。わたしだけ少し特殊というか……」
馬超はきょとんと首を傾げた。しかし、また面白そうに笑う。
「へぇ、じゃあ嬢ちゃんは特別ってことか。それはますます面白ぇ。戦場に咲く一輪の華ってところか。……いや、姉ちゃんも入れて二輪か?」
途端、関羽が赤面する。勿論幽谷は嫌そうな顔だ。
関羽の反応を見て、馬超は笑声を漏らした。
「こんなことで恥ずかしがるなんざ純情な嬢ちゃんじゃねぇか。特にその顔、そそるねぇ。どうだ、嬢ちゃん。戦の前の景気付けに俺といけない遊びをするってぇのは。俺がお前を最高に良い女に――――」
一瞬である。
幽谷はまた匕首を馬超の首に押し当てた。
「幽谷、また……!」
「おっと……何だ、姉ちゃんが相手をしてくれんのか?」
「……よろしいでしょう。ですがその時はお首が胴体と別れの挨拶を告げねばなりませんね」
「お堅いねぇ。ますます落としたくなってくる」
誘うように頬を撫でられ、顎を捕まれる。
幽谷の背後では、関羽が顔を赤らめながらもはらはらと二人の様子を見つめていた。
幽谷は片目を眇めた。
この軽薄さ……自身の身を置く場所を理解しているのだろうか。
おおかた無理矢理なのだろうが、戦をしに来たという自覚が無いとも思える彼の様子を、幽谷は不快に感じた。
それを言おうとした時、不意に幽谷の言葉を阻むように、遠くで馬超を呼ぶ声がした。
「若ー!! そろそろ俺たちも行きやしょう」
馬超は舌打ちした。幽谷の手首を掴んで匕首を離し、彼女からも離れた。
「邪魔が入りやがったか。仕方ねぇ。今度改めて口説かせてもらうぜ、二人共」
「……」
そう言い残して走り去っていく馬超の背中を、幽谷は睨みつける。
慌てているのは、関羽のみである。
「あ、改めてって……明日には戦なのに!?」
「関羽。あの人には近付かないようにね。くれぐれも」
「う、うん……」
『くれぐれも』を強調して言えば、関羽は即座に頷いた。少しばかりひきつっているのには気付かないフリをする。
「もし相手から接触して来た時は叫んで。殺すから」
「そ、それは駄目!!」
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