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「関羽! 関羽じゃないか」
幽谷が一人猫族専用の陣屋にて荷物の整理をしていると、聞き慣れた男の声がした。
咄嗟に天幕の中に隠れてしまったのは条件反射という奴だ。
「趙雲!? あなた一体どうしたの? 幽州に戻ったんじゃなかったの?」
「ああ、戻ったとも。その後、曹操殿からの檄文に我が主君公孫賛様が賛同なされて、今回の反董卓連合軍に加わることになったんだ。それより、お前の方はなぜこんなところにいるんだ? お前がいると言うことは、幽谷もいるんだろう?」
ああ、話している。
趙雲と関羽が近くで話している。
……どうしよう、出られない。否、出たくない。
「実は……、わたしたち猫族は曹操に命じられて洛陽で黄巾賊の残党狩りをしていたの」
「お前たちが?」
関羽が猫族の事情を話すのに、趙雲は驚いていた。
それでいながら、力になるとも言う。
ここまで猫族に偏見を持たない人間は、非常に珍しい。
……ああ、本当にどうしよう。このまま出て行きたくない。趙雲と顔を合わせたくない。
「なぜだろうな。お前を見ていると傍にいて助けてやりたくなるんだ」
――――今出たら趙雲を攻撃してしまいそうだ。
「何かあったらすぐに言え。今は同じ連合軍だ。すぐに駆けつけるよ」
「あ、ありがとう、趙雲」
あの天然はどうにかならないものか!
関羽を公然と口説く姿が何とも腹立たしい。
幽谷はぐっと拳を握る。
するとその時、二人の会話に入ってくる人物がいた。
「お兄さん、だぁれ?」
「劉備」
「俺か?俺の名前は趙雲。幽州の太守、公孫賛様の部下だ。関羽の弟か何かか?」
趙雲がそう思うのも無理はないかもしれないが、関羽が慌てて否定し、訂正する。
すると、彼は意外と驚く様子は無く、劉備の自己紹介に丁寧に返す。
ああもう……これからどうすれば良い!
幽谷は頭を抱えた。
‡‡‡
非常に勿体ない話だが、幽谷は結局札を使った。
一度口から離してしまえばもう効力は失われてしまうので、また何枚か補充しなければならない。紙は非常に高価なので自分で作っていたのだが……ああ、また手間がかかる。
紙を作るという作業は、非常に時間がかかるのだ。
百日要する過程もあれば、八日八晩かかる過程もあるのだ。
だからといってこの陣屋に大量の紙があるとは思えないし、四凶に恵んでくれるとも思えない。
……まず、札の枚数を確認しておこうか。
幽谷は歩きながら懐を探り、札の束を取り出した。束にしてみれば実際幽谷の腕の太さ程もあるが、種類が多いと言うだけで、その中で気配消しのようにいつも使うものはもう片手で足りる数まで減ってしまっているのだ。
「四枚……一番少ないわね」
溜息をつく。
――――その時だ。
「何だ、それは」
「……ああ、夏侯淵殿ですか」
ただ普通に歩いていただけなのだが、何故か夏侯淵に目を付けられた。
札から目線を逸らして、夏侯淵を見やる。
「それは何だと訊いている」
「……札です。方術の心得がございます故」
頭を下げて答えると、彼の眉間にぐぐっと皺が寄った。
「方術? 妖術の間違いじゃないのか。貴様のような下賤の輩がそのような術を仕える筈がない」
「そうですか。ではそのように思っていて下さって構いません。私はやることがございますので、これにて失礼致します」
札を懐に戻すと幽谷はくるりときびすを返す。
そんな彼女に、夏侯淵は更に不機嫌を露わにする。
そして、荒い口調で話しかけるのだ。
「あの鉄紺の男、貴様の知り合いらしいな。こちらの情報が漏れるようなことがあれば、その時は覚悟しておけ」
「……」
幽谷は肩越しに彼を振り返った。
「ご心配無く。猫族に害為すならば、あれもいつかのあなた方と同じく、私の排除対象です」
あちらもそう思っている。
こちらが迷えば、大切なものを失ってしまうだろう。犀煉は容赦なく、潰す。
それだけは、回避しなければならない。
よしや、化け物とより罵られることになろうと、猫族の者達にまで恐れられようとも。
それが私のやるべきことなのだ。
簡単に捨てきれる過去ではないが、教育係だった男でも、猫族の邪魔になるならば殺す。
私は猫族の関羽に仕えているのだもの。
最優先は、彼女と、彼女の大事なものを守ること。
それが私がここにいる理由だ。
彼女達だけは、絶対に守る。
その為に犀煉を殺すことに、迷いは無い。……無いと、奥底で迷う自分を押し潰す。
自身に言い聞かせ、暗示をかけるように彼女は強く思い、胸の中で何度も繰り返す。
……実のところ、まだ彼女には迷いがあるのだった。それを、必死に抑え込もうとする。
されど悲しきか、人間にそれを察する者など、当然ながら一人も存在しない。
幽谷は夏侯淵が何かを言う前に元来た道を戻った。これ以上夏侯淵の神経を逆撫ですれば、猫族にも迷惑がかかる。だからといって猫族を蔑む人間に媚びるつもりなど無い。
結果、ここを去る以外に方法は無かった。
――――後に残された夏侯淵は、彼の警告などに全く表情を変えず危険な発言までした彼女を憎々しげに睨めつけるのだった。
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