22
「ほら、幽谷。お前の食事だ」
彼は私の《教育係》だった。
いつも一緒にいたのは彼で、私に体罰を与えたのも基本的に彼。
彼はいつも私を見ていた。監視、という訳ではないとは思う。彼の心が分かる筈もないので確証は無い。
だけど何故か、彼は私に対してほんの少し甘いところがあった。
食事を与えられないのは当たり前だけれど、ごくたまに彼が自分の食事から分けてくれた。
それに寒い日には身体を覆うに十分な大きさの粗末な布をくれた。
私は彼が分からなかった。
当主たる父を継ぐ男。
だのに、何故自分にあんなことをするのか。
彼に直接問うたことがあった。
だけどその時は冷たくあしらわれてしまって、答えは得られなかった。
彼は教育係なだけ。私に暗殺について教えるだけで良い。ただ……自身は生まれつき身に付けていたから、ほとんどが無駄なことであったけれど。
「幽谷、お前は人ではないのだから、決して心を持とうとするな。自分は生まれながらの世の芥(ごみ)なのだと思い込め。そして汚いなりに、醜く生きれば良い」
嘲笑を交えて言ったその翌日。
彼は行方知れずになってしまう。
誰も、彼を捜そうとする者は無かった。
私もまた彼を捜そうとはしなかった。
任務に失敗して死んだのだと思ったから。
長い時を経て――――再会することなど、少しも予想してなかった。
‡‡‡
身体が揺れている。
何故?
ふっと意識が浮上し、幽谷は目を開く。
そこで、自分が誰かに背負われていることに気が付いた。
……確か自分は関羽や張飛と共に、曹操に従い董卓の屋敷に行った筈。
どうして、背負われているのだろうか。
「……あの、」
「ん……ああ、気が付いたか。身体はどうだ」
幽谷を背負っていたのは世平だった。
「あの、ここは……」
「洛陽の外だ。董卓の暗殺に失敗し、俺たちは曹操に従って沛国礁県という場所に行くんだ。劉備様は、先にそちらに行っている」
「左様でございますか……、あ、私は大丈夫ですので――――つっ!」
突如、腹に走った痛みに顔を歪める。
腹が痛い?
――――ああ、そうか。
私は、犀煉に刺されたのだ。
死んだと思っていた自分の教育係。
彼がまさか、呂布のもとに身を寄せていたなんて……。
どうと、胸に鉛が落ちた。
「大丈夫か、やはりまだ腹が痛むか」
「ええ、少し……ですが歩けない程でもありませんので」
「そうか。悪いな、急いでいたから傷を塞ぐくらいの水しかかけられなかった。曹操の城がある沛国礁県に着いたら、改めてかけてやるから、それまで辛抱してくれ」
幽谷を丁寧に下ろし、世平は頭を撫でる。
「いえ、それは構わないのですが……」
前方を見れば、関羽達がだいぶ前にいるのが分かる。世平は幽谷を背負っていたからか、猫族の列の最後尾にいる。
先頭に向かって関羽が走っていくのに気が付いたけれど、この身体では追いかけるのは難しそうだ。
やむなしと吐息を漏らせば、猫族の男性が一人、幽谷に気が付いた。
「……お、幽谷! 気が付いたのか!」
「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
頭を下げると、肩を叩かれ「気にするな」と。
それから猫族皆に、声を張り上げて知らせた。
「マジで!? おーい!! 幽谷ー!!」
張飛が飛び跳ねて諸手を大きく振る。
幽谷も頭を下げて応えた。
「無理はすんなよー!!」
「張飛の言う通りだ。幽谷、キツくなったら言えよ」
「はい。ですが、今は歩くくらいならば大丈夫です」
痛いが、背伸びしたり無理な体勢を取ったりしなければそれ程でもない。
幽谷は腹を撫で、血で汚れてしまった服にまた方術で洗って、修復しなければならないかと考えた。……方術の使い方を間違えているような気もするが、そこはもう気にしていない。使えるものは遠慮無く使えと関定や張飛に言われているから。
「何か食うか? 干し肉があるが」
「……では、少しだけいただきます」
世平は頷いて、猫族の男性に声をかける。
男性はすぐに列の中に戻り、食料を運んでいる者に声をかけた。
急ぐ必要など無いのだが、程無くして戻ってくる。
「ほら。食え」
「ありがとうございます」
頭を下げて受け取り、かじる。
……そう言えば。
犀煉は干し肉が嫌いだった。……いや、干し肉と言うよりは、硬い物が苦手だった。
今になって犀煉のことを思い出すなんて……敵になっているのに。
呂布と張遼に加え、犀煉までいるなんて。
なんて厄介なことなの。
さすがに、彼らに一斉にかかられてしまったら本気を出しても難しいのではないだろうか。
彼女の赤い唇の隙間から、細い吐息が漏れた――――。
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