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「饕餮ちゃん、貴女……」
幽谷は茫然と呟く呂布に肉迫し、その首を掴んだ。ごりっと、彼女の後頭部が床にぶつかる。
静かに見下ろすと、呂布はぱあっと表情を晴れやかにした。
「本当に貴女という方は……! 何処までわたくしを喜ばせて下さいますの?」
彼女は歓喜にうち震えた。首を捕らえられ、いつ折られてもおかしくない状況だというのに笑って幽谷に手を伸ばすのだ。
そろりと撫でられる。
幽谷は片目を眇めた。
「ねえ、饕餮ちゃん。子猫ちゃんと一緒にわたくしのもとにいらっしゃいな。わたくし、本当に貴女達が欲しいですわ!」
「……」
彼女は無言で呂布の手を払った。
そして大刀を投げ捨て、懐から匕首を取り出して、彼女の首に当てた。
直後――――。
「!」
幽谷は咄嗟に彼女から離れた。
彼女が今までいた場所に湾曲した一閃。
張遼の得物である。
幽谷は大刀を拾い上げて、張遼に向き直った。
呂布が、のっそりと起き上がる。
「呂布様、そろそろお時間です」
呂布に頭を下げる張遼は、傷も無ければ着衣の乱れも無かった。
夏侯惇達の相手は、彼にとっては造作もないことだったのかも知れない。だが、如何な彼でも三対一では難しいのではないだろうか?
「あら、もうそんな時間ですの? これからが面白いところですのに、つまらないですわ」
呂布は軽く目を瞠った。
「董卓将軍もすでに屋敷を脱出なさったようです。そろそろ我々も行きましょう」
その時、夏侯惇と夏侯淵、そして曹操が歩いてくる。彼らは満身創痍であった。
その向こうに……一人の男がいる。
黒髪は腰の辺りで切り揃えられ、幽谷の左目と同じように真っ赤な目は白すぎる肌にはよく映える。
闇の中でも、その美しさは際立つ。
ただ――――前髪で顔の左半分が隠されていた。
幽谷はその姿を見るなり、愕然とした。
「……っ、煉(れん)……!」
――――犀煉(さいれん)。
犀家の中で幽谷に次ぐ実力者であり、幽谷の面倒を見ていた次期犀家当主。
幽谷が一人で任務に当たるようになった頃、行方不明になっていた筈だが……。
何故、彼がここに?
「幽谷」
犀煉は長い黒髪を揺らし、足首までを覆う鉄紺の衣を割くようにして歩いてくる。
幽谷は一歩後退した。
「久し振りだな。健勝そうで安心したぞ」
「煉……、あなた、どうし、て……」
「そんなことは些末だ。お前が知る必要は無い」
彼がいたのなら、曹操達が苦戦するのも不思議は無い。彼の腕は、関羽すら及ばない。
真実、化け物が二人。
犀煉は狼狽える幽谷の前に立つと、そっと肩を掴んで抱き寄せた。抵抗出来なかった。
ずぶ。
「ぐ……っ!」
腹に、何かが突き刺さった。
「幽谷!」
「まあ、犀煉ちゃん! わたくしの饕餮ちゃんに怪我をさせてはいけませんわ!」
「すいません、呂布様。ですがこれが、犀家の彼女に対する挨拶ですので、ご容赦下さいませ。それに、この顔も、貴女はお好きでしょう」
犀煉が離れると、幽谷はその場に膝をつく。腹には、剣が深々と鳩尾に突き刺さっていた。背中まで貫通しているのを、犀煉は抜き去った。
血が噴き出し、幽谷はその場に倒れた。
身体が動かない。
薬が塗ってあったのだ。幽谷に効くと言うことは、彼女が身に入れたことの無いもの。犀煉の特製の薬なのだろう。
徐々に身体が痺れていく感覚に、幽谷は歯噛みしようとしたけれど、力が入らなかった。
幽谷の身体を回し仰向けにすると、呂布が笑った。
「そうですわね……饕餮ちゃんのこのお顔、なかなかそそりますわね」
「……っ幽谷に近付かないで!!」
関羽が偃月刀を持って幽谷の側に立つ。
犀煉は嗤(わら)った。
「お前が幽谷の主人か。これは、水に浸ければ傷などすぐに治せる。そこまで慌てることでもないだろう」
関羽は、目を剥く。
「水……あなた、それを知っているの!?」
「ああ。俺とこいつは長い付き合いだからな。水に浸ければ怪我が癒えることなどとうに知っている」
「あ……っ」
彼は幽谷の腹に足を落とした。
幽谷が顔を歪めて呻く。
それを見た呂布が顔を赤らめて喜んだ。
「犀煉ちゃん、わたくしにさせていただけないかしら!」
「……構いませんが、時間は大丈夫なので?」
「呂布様」
ゆったりと張遼が呼ぶと、呂布は拗ねたように唇を尖らせた。
「分かっていますわ。もう……」
呂布は肩をすくめ、犀煉を呼ぶ。
彼は頭を下げて張遼と共に呂布の傍らに立った。
そんな折、張飛が後ろから駆けてきた。
「姉貴、大丈夫か――――って幽谷!?」
「張飛! あなたどこまで行ってたのよ!?」
思わず怒鳴ると、張飛は慌てて謝った。
「けどそれよりも姉貴、幽谷の奴どうしたんだよ! 酷い怪我じゃねーか!」
張飛が丁寧に幽谷を抱き起こし、止め処なく血を流す傷を見下ろす。
関羽はその傷に、何か当てる布は無いかと懐を探った。張飛にも訊ねた。されど、彼は持っていない。
このまま流し続けては危険だ。いかに水を浸ければ治るとは言え、水に浸ける前に死んでしまえば意味が無い。
せめて傷口を押さえて止めておかないと……!
袖を千切ろうとした関羽の視界に、そっと大きめの手拭いが入る。二枚あるように見える。
顔を上げれば、曹操であった。
「使え。縛れば多少は押さえられるだろう」
「あ――――ありがとう!」
関羽は一枚を前にそのまま当て、結ばずにもう一枚を後ろに当てて前で結んだ。なるべく傷を圧迫するよう、キツめに。
幽谷は必死な関羽を見上げて、何かを言おうと口を開いた。だが、上手く行かない。
意識も、段々と混濁している。そろそろ危ない。
駄目。
まだ、関羽と張飛を守らなければならないのに。
こんな薬で動けないなんて、あってはならないだ。
犀煉がいるのなら、幽谷以外に倒せる者はいないのだから。
されど、彼女の意思とは裏腹に、闇は意識をじわりじわりと確実に呑み込んでいく。
そして――――。
完全に気を失った。
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