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 夜の闇の中。
 富を象徴するかのような荘厳なる屋敷は沈黙している。
 夜風はいやに生温く感じ、ぞわりとした不快感を与える。

 この緊迫した空気、誰も黙りとして口を開こうとしない。開けば、大事なものが台無しになる――――皆、その思いから口が重く動かないのだ。

 それは張飛とて同じである。
 だが、彼は耳を微動させ、歩きながらに彼方を睨んでいる。


「張飛、どうかした?」


 声を潜めて、関羽が問いかける。

 張飛は首筋に手を当てると、唇を曲げた。


「なんか誰かに見られてる気が……。しかもすげーイヤな視線なんだよな」

「わたしは視線なんて感じないわ? 幽谷は?」


 話を振られ、幽谷は周囲を見渡す。
 ……確かに感じるが、


「微かです。気にするようなことではないかと存じますが……」

「んー……でもやっぱ何か気になんだよなー。ごめん、姉貴! オレ、ちょっとこの辺り見てくる。先に行っててくれよ! 幽谷も、姉貴のこと頼んだぜ!」

「畏まりました」

「ええ!? ちょ、ちょっと張飛ー!」


 張飛の行動は早かった。
 幽谷の肩を叩き、関羽の制止も耳を貸さずにあっという間に遠退いてしまう。関定には劣るものの、彼の足もなかなかの俊足なのだった。


「って、もう行っちゃったわ……」

「張飛様はとてもお強い。視線はそれ程危険なものとも思えませんし、あのお方ならば大丈夫でしょう。ご心配ならば、今からでも追いかけられては……」

「ううん。そうよね、張飛なら大丈夫だわ。わたしたちはわたしたちのやるべきことをやりましょう」

「御意のままに」


 すでに見えない張飛が走り去った方向から目を前に戻し、関羽は足を早める。

 幽谷は、関羽に頷きかけて彼女に続いた。



‡‡‡




「ヌハハハハハハ。なにやら今夜は、騒がしいようだのう」


 悠然として、その男は曹操を向かえた。
 こちらを警戒していないのか、彼は豪奢な椅子に座り、背もたれに寄りかかってこちらを見下すように見ている。


「ここにいたか、董卓」

「曹操よ、わしは既に帝に等しき存在。呼び捨てなぞ無礼であるぞ」


 傲然と言う董卓。いけしゃあしゃあと、よく言えるものである。

 曹操は彼を嘲った。


「笑わせてくれる。帝を亡き者にした大罪人が大口を叩くものだ」

「ヌハハハハハ。このような夜更けに押しかけて何を言うかと思えば戯言を! 無礼にもほどがあるぞ? 控えよ、曹操」


 耳障りな董卓の笑声は、広間の静寂に反響する。

 ああ、聞くだけで耳が汚れてしまいそうだ。
 これが人間。
 かくも卑しき性(さが)。
 幽谷は関羽の後ろから蔑視を向ける。

 夏侯惇が怒声を上げた。


「黙れ!! 帝を葬り漢帝国の実権を奪取しようとした盗人が偉そうな口を!!」

「盗人? 曹操よ、そなたは部下の教育もまともに出来ておらぬようだな。このわしを盗人扱いとは、無礼というだけでは済まされぬぞ」


 そなたこそが、わしを殺して国を盗むつもりなのであろう?
 鷹揚に、董卓は曹操を質(ただ)す。

 曹操の笑みは、崩れなかった。


「私は盗人ではない。力と知謀で簒奪者になるのだ。お前とは、違う」


 自信に満ち満ちた曹操の声はよく通る。

 董卓は三度笑声を上げた。


「息の荒いことよ。それでは天下万民は治められぬぞ。わしを殺すことが出来るのか。見物だのう」


――――刹那である。
 後方で兵士の悲鳴が上がった。

 ぎょっとして振り返れば、紫色の艶やかな髪が夜陰の中に踊った。


「こんなに数が少ないのですから精鋭ばかりが揃ったのかとも思いましたが、期待はずれでしたわね……」

「呂布!!」


 関羽が叫んだ。

 つまらなそうに眉尻を下げていた呂布は、その声で関羽と幽谷に気付く。途端、美しいかんばせは一気に晴れ渡った。歓喜が瞳を輝かせる。


「貴女たちは……! わたくしの可愛い可愛い子猫ちゃんと饕餮ちゃんではありませんか!」


 幽谷は関羽を背に庇って大刀を構えた。


「もしかして遊びに来て下さったのかしら? 嬉しいですわ〜!」


 心底嬉しそうに呂布は戦斧を抱き締めるように握る。


「曹操よ。そなたの行動などお見通しじゃ。ヌハハハハハハハハハハ」


 董卓の言に血相を変えたのは夏侯惇である。
 彼は関羽に詰め寄った。


「貴様……!! まさかこの計画を密告したのか!?」

「あなたは馬鹿ですか」


 このような計画、誰かが取ると簡単に予想が出来る。そして諸侯の中で董卓暗殺なんぞ出来るものは曹操しかいない。
 頭の回る者ならば、そのような考えに至りそうなものである。
 董卓はその『頭の回る者』でないことは確かだが。
 この場合、呂布だろう。


「まぁ、すぐに子猫ちゃんたちを疑うなんて。これだから男は短絡的で困りますわ」

「何!?」

「第一、誰かが密告なんてしなくとも、貴方たちが董卓将軍の命を狙うことなど簡単に想像がつきますわ」


 「でも」呂布は唇を舐め、小さく笑う。


「まさか今日いらっしゃるなんて。ここまで予想通りに動いて下さるなんて思いませんでしたけれど、うふふ」


 夏侯惇は歯噛みする。


「さあ戦え。呂布よ! わしは先に屋敷を出るからのう」


 董卓は立ち上がると、笑声を響かせつつ鷹揚に広間の奥へと歩いていった。
 気付くかと思ったのだが……今の今まで全く気付かれていなかった。
 少しだけ拍子抜けだ。
 今なら殺せるかも知れないが、呂布は関羽と戦う気でいる。そしてそれに快感を求めている。

 関羽を一人にしてはおけない。


「饕餮ちゃんは勿論ですけれど、きっと子猫ちゃんはこんな雑魚兵士たちよりもわたくしを楽しませてくれますわね」


 彼女は戦斧を構え、二人へと優雅に歩いてくる。艶めかしさの中に狂気じみた感情が、その双眸に見え隠れする。

 しかし、呂布の言葉に怒った夏侯惇と夏侯淵が呂布の前に立ちはだかる。

 呂布は途端に興醒めしたように表情を消した。


「わたくしと子猫ちゃんたちの邪魔をなさるおつもり? ずけずけと図々しい人ですわ」

「黙れ!! 董卓の前に、貴様の首をもらう!!」


 呂布は大仰に吐息を漏らす。
 これだから男は嫌いだと、呟く。


「張遼ちゃん、相手をしてあげなさいな」

「かしこまりました」


 闇から現れ金髪の優男――――張遼が、特殊な得物を持って夏侯惇達の前に立つ。
 呂布はその横を通って、今度こそ関羽と幽谷の前に立った。


「もちろん、お二人はわたくしと戦って下さるのでしょう?」

「……! 受けて立つわ! 幽谷!」

「御意」


 幽谷は大刀の切っ先を呂布に向け、目を細めた。



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