17
張遼に会って以来、幽谷は何故か洛陽の町に出してもらえなくなってしまった。
関羽が曹操の屋敷に行こうとしても買い出しに行こうとしても、張飛や蘇双達がついて行ってしまうし、周りの猫族はこぞって幽谷を休ませようとする。
元々心配してくれていたのは分かっていたが、途中でこうも強まってしまうと、どうしても戸惑ってしまうし、何かあるのではないかと疑ってしまう。猫族に限ってそんなことはないとは思うのだけれど……。
「幽谷、手が止まってるよ」
「……あ、」
共に洗濯をしていた蘇双に指摘され、幽谷ははっとする。確かに、衣服を水に浸けたまま手が止まっていた。つい先程まで戦に駆り出されていて、関羽はその報告に一人で出て行ってしまった。すぐに帰ってくると言っていたけれど……ああ、心配だ。
蘇双に謝罪して、幽谷は再び手を動かした。
「最近、身体はどう?」
「お陰様で、隈も消えておりますし、戦の最中も普段通りに動けております。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「謝る必要は無いって言いたいところだけど、さすがに無理しすぎ。だから、こうなっているんだって、自覚しなよ」
自覚はしているのだが……それでも。
渋面を作った幽谷に、蘇双は吐息を漏らした。
すると、そんな折である。
一羽の雀が、幽谷の肩に降り立った。
「あら……何?」
手を止めて笑いかけると、雀が小さくさえずる。
直後、幽谷の顔が凍り付いた。
「何、ですって……?」
「幽谷、どうしたの」
「……蘇双様。急用を思い出しました故、少し出て参ります。大変申し訳ありませんが、洗濯物をお願いします」
「なっ!? ちょっと幽谷!」
蘇双に頭を下げ、幽谷は雀と共に駆け出す。
――――帝が殺された。
そして、金色の塊が、伝国の玉璽が董卓の手に渡った。
雀のもたらした情報を解釈すれば、そのようになる。
董卓は私欲の権化であり、呂布を従えている。
彼のような人間が帝に変わって為政者になっては、国――――ひいては猫族の為にもならぬ。
曹操ならその報はもたらされている筈だ。彼の動向を知る為に、幽谷は眼帯を付けることも忘れて屋敷に向かった。
されど、屋敷に乗り込んだ直後、
「幽谷!」
「っ、関羽様!」
報告に来ていた関羽と会った。
幽谷は関羽に頭を下げて、曹操のもとに行こうとした。
されど、それを関羽は服を摘んで引き留めた。
驚いて振り返れば、彼女の顔は途方に暮れたように歪んでいた。
「……どうしたの?」
「幽谷。董卓が、帝の代わりに政を……わたしたち猫族は殺されてしまうかも知れないって、」
「あなた、その話、誰から聞いたの!?」
がしっと肩を掴んで問い質(ただ)す。
関羽は瞠目した。
「幽谷も知っていたの?」
「……ええ。この子から聞いたの」
肩の雀を見下ろすと、雀は鳴いて飛び立つ。そして近くの梅の木に停まった。
「それで、あなたは何処で?」
「洛陽の町中で曹操と夏侯惇に会ったのよ。董卓から重要な発表があるって。それで、わたしも気になることを言っていたのを思い出して、一緒に行ったの。話を聞いたのは董卓の屋敷で。猫族が危ないってことは、曹操が言っていたことよ」
「……そう」
董卓の屋敷に行ったことを叱りたかったが、今はそれどころではない。
幽谷は溜息をついて関羽の肩から手を離した。
「それで、曹操殿は何と?」
「うん……。今夜、董卓を暗殺しに行くって。それからその軍にわたしや張飛、それから幽谷も予備戦力として加われって」
「……」
やはり、そう来るか。
幽谷は舌打ちし、関羽の頭を撫でた。
「私だけで勘弁していただくようお願いしてくるわ」
「! だっ、駄目! 危ないわ!」
「けれど――――」
「おい」
背後から声がかかる。
振り返ればそれは夏侯惇で。
幽谷が眼帯をしていないことに目を瞠ったが、すぐに細めた。
「先ほどの話、十三支以外には他言無用だということはわかっているだろうな?」
「ええ、もちろんよ。人間には絶対に言わないわ」
大きく頷く関羽に、夏侯惇は鼻を鳴らす。
「ふん、どうだかな。曹操様はどう思われているか知らないが、俺は貴様らを信用する気など毛頭ない。本来なら、全てが終わるまで貴様らをこの屋敷から出すことも許されることではない」
「お言葉ですが、信用していないのはこちらとて同じです」
冷たく言い返せば夏侯惇が眉間に皺を寄せた。忌々しそうに幽谷を睨んだ。
「……何たと?」
「あなた方にとって、私達は卑しき存在。であれば、己の罪を私達に擦り付けるのにも、何ら抵抗はありますまい。人間なぞ、私達にしてみれば皆同じなのですから、よしや暗殺のことを外部に漏らしても、罪に問われた際いかに無実を叫んでも、人間は絶対に信じません。違いますか?」
「曹操様がそのような愚考をなさると? はっ、これだから卑しい者は困る」
「残念ながら、私はあなたのように曹操殿を理解してはおりません故。では、失礼いたします」
関羽の腕を掴んで元来た道を辿ろうとすれば、夏侯惇は二人を呼び止める。
話したくないという感情を露わにするくらいなら、呼び止めなければ良いのに。よく分からない御仁である。
「待て。もしこの計画が周知のものとなった時は、貴様らがどうなるか、わかっているな?」
「そうなれば、まずご自分達の身の安全を心配されてはいかがです?」
「……貴様、」
「そっ、そうなった時は曹操に謝るわ!」
武器に手を伸ばそうとした夏侯惇を見て、関羽が慌てて口を挟んだ。
しかし、その答えも夏侯惇の神経を逆撫でするもので。
「ふざけるな!! その程度のことで許されると本気で思っているのか!?」
そして、彼は剣を抜く。
彼の感性では、関羽の言葉は相当許せなかったらしい。幽谷は、彼女らしい純粋な答えだと思ったのだが。
関羽に斬りかかろうとするのを止める為、幽谷は夏侯惇に肉迫して素手で刀身を掴んだ。
「なっ!?」
「幽谷!!」
血が、滴った。
痛みから察するに、結構深く切れたかも知れない。されど刃を放すつもりは毛頭無かった。
「幽谷! 剣を放して! 血が……っ」
「私なら大丈夫です。そんなことよりも、関羽様は張飛様をお連れ下さい。ここは私が押さえておきますので――――」
「騒がしいぞ、夏侯惇」
……曹操。
眉間に皺を寄せて歩いてきた曹操に、夏侯惇は慌てて剣を引いた。ああ、余計に切れてしまった。
血で真っ赤な幽谷の手を見て瞠目するも、曹操は夏侯惇を一瞥し、静かに諭した。
「劉備がこちらにいる以上勝手な真似は出来ない。そう騒ぎ立てる必要もないだろう」
「しかし、こいつにはこの計画がどれだけ危険なものなのか自覚がありません!! 洛陽の民にこの計画が伝わりでもしたら……!」
「万が一の場合は、十三支を幕舎ごと焼き払ってしまえば、この計画が外部に漏れることはない」
関羽を脅すように、彼は言う。
咄嗟に外套の裏に手をやる。
「そんな……!!」
「それが、今や帝に等しい権力を握った董卓を討つということだ」
「ですが、それは人間の事情であり、我々が関与するべきことではないかと存じますが」
「だが、もはやお前達は我が軍の一部だ。命が惜しいのであれば十三支以外には他言無用。お前の仲間にも徹底させることだな」
匕首を掴んだ瞬間、関羽にその手を掴まれる。
彼女は強ばった顔でやおら頷いた。
「……わかったわ。絶対に他の人には言わない。約束するわ」
「ならば、すぐの十三支たちの元へ戻れ。行くぞ、夏侯惇」
「ハッ!」
幽谷は足早に広間へ向かう曹操の背中と、それに続く夏侯惇のそれを睨んだ。
曹操……猫族を何処まで利用し弄べば気が済むのか。
何処までも、腐った男だ。
忌々しさに、また舌打ちが漏れた。
「幽谷、急ぎましょう。幽谷の手も水に浸けないと!」
「……御意」
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