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 関羽は昼前には張飛と共に帰ってきた。
 が、陣屋に戻ってきても、いつも天幕の外にいる筈の幽谷の姿は何処にも見当たらず。

 曹操より昨夜関羽を迎えに彼女がやってきたことを知らされていたから、心配をかけているのかと思っていたのだけれど。
 張飛からは世平が彼女を休ませようと探しに行ったとまでは聞いていた。だが、彼女が見つかったのかは分からなかった。

 もしかして、まだ探しているのかしら?
 と、思っていたところに、


「関羽。戻ったか」

「あら、世平おじさん?」


 件の彼が、天幕から出てきた。

 関羽はきょとんとして、首を傾げた。

 世平は張飛に片手を挙げてみせた。


「張飛、すまなかったな」

「良いって、丁度暇してたし」

「世平おじさん。ねえ、幽谷は出かけているの?」


 偶然その場を通りかかった世平に、幽谷の所在を訊ねる。
 世平はああ、と頷いた。


「幽谷なら、寝かせた。自分の天幕にいる筈だ」

「そうなの? ……もしかしてまた倒れたんじゃ……!」

「いや、また隈が酷かったから休めと言ったんだがそれを無視してお前を迎えに行っちまってな。倒れる前に無理矢理寝かせたんだ。張飛から聞いてたろ?」

「え、ええ……」


 倒れた訳ではないと知って安堵した。
 関羽は吐息を漏らし、「じゃあわたし、幽谷のところに行ってくるわね」と駆け出した。

 しかし、世平が彼女を呼び止めた。


「関羽。ちょっと良いか?」

「え? 何? おじさん」

「幽谷のことでちょっとな。張飛、お前はもう良いぞ。さっき蘇双と関定が山へ山菜摘みに行ったから、手伝ってやってくれ」

「えー、俺も聞いちゃ駄目な訳?」


 世平は頷き、張飛の肩を叩いて促した。
 張飛は文句を漏らしながらも、それに従って山の方へと歩き出す。彼もまた幽谷が心配だったのだろう。

 関羽は張飛にお礼を言いつつ、大きく手を振った。


「それで、どうしたの? 幽谷のことって」


 世平は頷き、すっと顔を暗くした。


「ああ、あのな……今朝幽谷を迎えに行った時、あいつを饕餮と呼ぶ男に会ったんだ」


 関羽は瞠目した。


「もしかして張遼!?」

「何だ、関羽も知っていたのか」

「え、ええ……。呂布っていう女性の武将が董卓の下にいるんだけど、張遼はその部下なの。幽谷が前に董卓を命を狙っていたことがあるって、呂布が言っていて……」


 記憶を手繰りながら話せば、世平は遠い目をして顎を撫でた。


「……最後の仕事を失敗させた原因の部下」

「え?」

「その張遼という男との関係を訊いたら、幽谷はそう答えた。どうやら、幽谷の最後の仕事は、董卓の暗殺だったらしいな。それが、呂布って奴らに邪魔されて、失敗した。討伐軍の陣屋で董卓に謁見しなかったのは、その所為かもしれん」

「じゃあ、これから幽谷を洛陽の町に行かせるのは……」


 世平は頷いた。

 止めさせた方が良いだろう。
 董卓に気付かれれば、幽谷の身が危うくなるし、猫族にも制裁の手が伸びるとも知れない。
 幽谷の暗殺を邪魔した程の人物だ、その呂布という女武将と部下張遼、彼女が制裁の先頭に立たれた場合、どうすることも出来ない。恐らくはその中には曹操軍も加わる筈だ。
 幽谷の身を守ることが最優先だが、猫族についても考えるべきだ。


「今後、あいつに関してはなるべく目を離さないようにしてやらねえと……また一人で抱え込んでどうにかしようとしちまうだろう」

「そうね……、幽谷にはずっと助けられてきたから」


 何とか、守ってあげたい。
 関羽の言葉に、世平は大きく頷いた。


「ああ。一応、適当な理由を付けて張飛達にも言っておく。だが、関羽も幽谷と董卓の関係については絶対に話すなよ。猫族には話しても問題は無ぇだろうが、曹操軍の見張りのこともある。ここは、慎重に行こう」

「ええ。分かったわ」

「話はそれだけだ。じゃあ、幽谷のところに行ってやってくれ」


 世平は関羽の頭を撫でて、足早に歩き去っていく。

 関羽は暫くその姿を見送り、彼女もまた大股に幽谷の天幕へと急ぐのだった。



‡‡‡




 ようやく戻ってきた。
 無駄に長い時を浪費した。
 なんと冗長とした道程だったか。

 だが、これでようやっと責務が果たせる。

 尊い御方に賜った命が果たせる。

 早く、向かえ。
 早く、果たせ。

 戻ってきたのだから、早く果たせ。

――――お前の存在意義はそれしか無いのだから。



 五月蠅い。
 五月蠅い。
 もう黙れ。

 お前は誰だ。

 私に、命令をするな。



 どうせあいつには敵わない。
 足掻くだけ無駄なのだ。
 だったらここで諦めてしまった方が良いのではないか?

 そうだ。
 どうせ、殺されるだけ。
 自分達はただの道具。
 壊されるだけの運命ならば。
 将来(さき)に意味の無い命なら、いっそ捨ててしまった方が楽になれる。

 その力は、強大すぎる。
 自分達の存在は、とても空虚なのだ。

 捨ててしまえ。

 捨ててしまえ。

 楽ニナリタイノナラ。






『生きて』




‡‡‡




 幽谷が目を覚ました時、辺りは真っ暗だった。
 ……寝過ぎてしまったようだ。
 使いたくはなかったが、世平に勧められて飲んだ呂布からの薬は、確かに良く効いた。身体が、寝る前と比べて随分と軽い。
 だが、それが常人に作れる薬でないことは明らかである。

 仙薬の中の下薬――――それを呂布が持っているということは、彼女には仙人との交流がある可能性があるのだ。

 幽谷は溜息をつき、ふと手が何か温かい物に包まれているのに気が付いた。
 目が闇に慣れるのを待って首を動かせば、それは手だった。
 寝息のような音も聞こえる。

 目を凝らせば、関羽と知れた。
 まさか、ずっとここにいてくれたのだろうか?
 彼女ならばやりかねないことだ。
 苦笑が浮かぶ。

 嬉しいが、同時にそんなことをされる身分ではないと申し訳なくなってしまう。


「関羽様……関羽」


 ありがとう。
 そう、囁く。

 関羽は、身動き一つしなかった。



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