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 朝、幽谷は関羽を迎えに行く為に洛陽の町を歩いていた。
 昨夜の――――偃月の劉備……あれは、一体何だったのか。
 幻ではないとは、幽谷には分かる。彼もまた、劉備であった。
 けれど常時の劉備とは打って変わって大人びていた。いや、年相応、と言った方が良いか。

 劉備の精神も身体も成長しないのと、何か関わりがあるんだろうか。
 幽谷は思案しながら、町を歩く。

 と、ふと誰かにぶつかった。


「あ、すみません……」

「こちらこそ、申し訳ありません」

「!」


 相手を見、驚愕する。

 《彼》も幽谷に気付き、首を傾けた。


「おや、饕餮さんではありませんか。こんにちは」

「……」


 呂布の部下の、張遼だ。
 じり、と後退し幽谷は張遼を睨んだ。

 張遼は警戒する彼女を不思議そうに見つめながら、ふと目元の隈に気が付いた。
 手を伸ばそうとすると、振り払われる。


「ああ、すみません。女性に気安く触ってはいけませんでした。ですが、隈が酷く濃いようですが……お身体は大丈夫ですか?」

「ご心配される程のものではありません。お気になさらず」


 張遼に頭を下げるのは正直気が進まないが、それでも最低限の礼儀は払わねばならない。
 一礼し、彼女は足早に張遼の前から立ち去った。

 仕方がない。ここは遠回りをしていこう。

 そう思っていたのだが――――、


 がし。


「え?」

「幽谷、やっと見つけたぞ」


 低い声だ。
 何となく、嫌な予感がする。
 振り返らない方が良いような気がするが、それでも振り返らなければもっと大変なことになりそうな気がする。
 頭の中では警鐘がけたたましく鳴り響いていた。

 背後から襟首を掴まれたまま、幽谷はやおら振り返った。
 そして、ひくりと口端をひきつらせる。


「……世平様」


 額に青筋を浮かべた関羽の育て親がこめかみを震わせていた。

 幽谷は、ひきつった苦笑を浮かべた。



‡‡‡




「全く……今日は休んでいろと言っていただろうが」


 洛陽の片隅で、幽谷は正座をさせられている。

 時折休みをいただいていたから、本当に大丈夫なのだけれど。
 そう思うものの、目の前に腕組みして説教を垂れる世平は、幽谷に反論を許さない。彼は、彼女がほとんど寝ていないことも関羽に聞かされて知っているのだった。


「関羽の為に頑張るのは良いが、先日それで体調を崩したばかりだろうが。折角消えた目の隈も前よりくっきり出しやがって……」

「……ですが、」

「幽谷」

「申し訳ありません」


 頭を下げた。

 世平は眉間を押さえて大仰に吐息を漏らす。


「はっきり言うが、お前の基準はおかしい。倒れてからじゃ遅いんだ。暫く休め。言うことが聞けないなら、いい加減俺達にも考えがあるからな」

「……」


 ……これは、木にでも縛り付けてしまいそうだ。
 幽谷は俯き、こっそりと苦笑した。


「張飛が関羽を迎えに行ったから、お前はこのまま帰るぞ」

「……畏(かしこ)まりました」


 立ち上がると、頭を叩かれる。
 怒っていた筈の世平は笑っていた。


「お前が関羽や猫族をどれだけ大事に思ってくれているか分かってる。だがそれと同じように、俺達もお前が心配なんだ。分かるな?」

「……はい」

「これは俺達の問題だ、お前だけが背負うものじゃない。何度も言わせるなよ」

「……」


 汚れていく。
 優しい人達なのに。
 やはり、今でもそれが口惜しかった。
 幽谷は無言で頷き、歩き出した。

――――されど、それを呼び止める者が一人。


「ああ、ようやっと見つけました。饕餮さん」

「!」


 鷹揚な声音に立ち止まって身構える。
 数歩先で止まった世平は怪訝な顔をした。


「張遼……殿」


 張遼は薄く微笑み、幽谷に歩み寄る。そして懐から小さな包みを取り出した。


「よろしければ、これをどうぞ」

「……何です?」

「饕餮さんのご様子をお伝えしたところ、呂布様からこの薬をお渡しするように仰せつかりました。催眠効果があるので、夜に服用下さい。それと、呂布様から言伝も承っております。聞いたままに、お伝えいたしますね」

「聞いたまま?」

「はい。『わたくしの可愛い饕餮ちゃん。頑張り屋さんなのも大変愛おしいけれど、ただでさえ眼帯で顔の半分を隠してしまっているのに、あなたの愛らしく美しいお顔に隈があるだなんて、とても悲しいですわ。どうかこの薬で、たっぷりと身体を休めて下さいな。大丈夫、この薬はとっても良く効きますの。どうか安心してお使いになって』――――これが全てです」

「……」


 男性が女性の口調を真似るのはどうかと思う。
 幽谷は顔をしかめ、張遼から薬を受け取った。

 張遼は用は済ませたと、丁寧な挨拶を残して立ち去っていった。

 世平は顔を歪め、彼の背中を奇妙なものでも見るかのように見つめていた。


「何なんだ、あいつ……」

「世平様はお気になさらないで下さい。何でもありませんから」

「……そうか? だが、どうしてあいつがお前が饕餮だって、四凶だって知ってんだ?」

「私の最後の仕事を失敗させた原因の部下ですから」


 それを言うと、世平は目を丸くした。
 関羽は何も言っていないのだろうか。
 幽谷は小さくなっていく張遼の背中を見、ふと世平に向き直った。


「世平様、参りましょう」

「……ああ、そうだな」


 二人は、歩き出す。



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