14
劉備が軟禁されている部屋を訪れて、幽谷は訝った。
寝台に横たわって健やかな寝息を立てている関羽。
その傍に劉備が腰掛けている。
だが彼は、幽谷の記憶にある劉備の姿とは違って見えた。こんなに凛然としていただろうか。こんなに大人びて見えただろうか。
幽谷に気付いた劉備は、儚げな微笑を浮かべた。
「こんばんは、幽谷。僕が君と話すのは、初めてだね」
「劉備様……でございますね?」
声音は大人しく、年相応の知性を感じさせる。
今の彼にあどけない劉備の姿は無かった。
劉備はこくりと頷き、「今日だけ、だよ」と囁くように答えた。
「今日……偃月ですか?」
「そう。僕が出てこれるのは偃月の日だけ。明日になれば、いつもの幼いぼくに戻るよ」
幽谷は劉備の前に片膝をつく。じっと彼の金の瞳を見上げた。
劉備はその視線を無言で受け止める。
やがて、
「……劉備様ですね」
微笑んだ。
劉備は目を瞠った。
まさかそう言われるとは思っていなかったようだ。
だが、ややあって、嬉しそうに相好を崩した。
「ありがとう、幽谷。きっと受け入れられないと思っていたから、少し驚いた」
「目を見れば、分かります。劉備様の目は穢れがありませんから」
変わらないのならば、彼は劉備だ。
そう断じると、途端に劉備は表情を暗くしてしまった。
「劉備様?」
「僕は、汚れてしまう。いや、もう汚れているんだよ。きっといつか、関羽も皆も、悲しませてしまう」
何故、とは訊けなかった。
口を開くその前に劉備が泣きそうな笑みを幽谷に向けたからだ。それは、問うことを拒絶していた。否、問わぬことを懇願していた。
劉備が言いたくないのであれば、訊かない。
幽谷は劉備の手を両手で包みぎゅっと力を込めた。
「……幽谷、」
「大丈夫です。関羽様達はあなたの絶対的なお味方でございますれば、何を恐れることがありましょう。それに、猫族の穢れは全て、私が負います」
「けれどそれじゃ……」
「我が身はすでに穢れその物であります故、今更それが濃くなろうと構いませぬ」
安堵させる為に笑みを浮かべるが、劉備の顔は一層暗くなってしまった。
「駄目だよ。関羽や猫族の皆が傷つくのは確かに嫌だけど、幽谷ばかりが傷つくのも避けたい。それに僕はずっと守られてばかりだ。幼い僕もそれが悔しいから、汚れていく」
「悔しいから、汚れていく……」
「力を欲するんだ。皆を守りたいと強く願って、そして汚れていく」
こんな状況になってしまってはもう、手遅れなのかもしれない。
劉備は幽谷の手を剥がし、窓から見える偃月を見上げた。
半分を闇に食われた月。
「徐々に、僕は変わっていく。力を希(こいねが)えば希う程。邪に染まっていく」
劉備は月を見上げたまま幽谷を呼んだ。
もし――――もし、自分が完全に邪に染まってしまったら。
幽谷が、僕を殺してくれないか。
淡々と、彼は言った。
幽谷は柳眉を顰めて、諫めるように劉備を呼んだ。
「そのようなことを仰いますな。劉備様が邪に染まるなど、有り得ません。あなたのお側には、関羽様や張飛様がいらっしゃいます。あなたは一人ではないのですから、もっと周囲を頼って下さってよろしいのです」
「……ありがとう」
でも、駄目なんだよ。
彼は言った。
関羽達にも、幽谷にも、これだけはどうすることも出来ないんだ。
弱々しい笑みに、幽谷は僅かに眦を下げた。
「劉備様……、私は」
「ねえ、幽谷。今の僕のことは、まだ関羽達には言わないで欲しいんだ」
彼女は瞠目した。
何故かと問えば、彼は沈黙してしまう。
幽谷は劉備をじっと見つめ、やおら頷いた。
「分かりました。これ以上の詮索は止めます」
「ごめん」
「謝らないで下さい、劉備様」
幽谷は立ち上がると、劉備の頭を撫でた。
「今宵は、このまま帰ります。関羽様のことをよろしくお願いいたします」
関羽を見やる。
さして声を潜めて会話をしている訳でもないのに彼女に起きる様子は無い。
余程疲れているのだろう。このような生活を送っていれば、無理もない。
関羽のかさかさになってしまった頬を優しく撫でて、幽谷は薄く笑う。
劉備は、優しく笑う彼女の隻眼の下にも隈が見えるのに気付いていた。
関羽も疲れているが、幽谷も彼女以上に疲れていることだろう。それでも猫族の為だけに自分を蔑(ないがし)ろにして、彼女は動く。
関羽から風邪で倒れたことは聞いている。風邪は治ったようだが、蓄積しすぎた疲労とまではいかなかったようだ。
「幽谷も、たまにはゆっくり休んだ方が良い」
「ありがとうございます。ですが、私は大丈夫です。どうか、お気になさらず」
どんなに言っても彼女は聞かない。
大丈夫と言い張って、無理をする。
彼女はまだ、彼女の身体が彼女だけのものではないのだと気付いていないのだろうか。
猫族に一員として、皆が一様に心配していると気付いていないのだろうか。
……もし、自分にもっと力があるならば。
関羽も人間の事情に巻き込まれなかっただろうし、幽谷もこのように身体を酷使する羽目にならなかったのかもしれない。
そう思うと、自身の胸の奥でくすぶる何かが熱を持ったような感覚を得た。
「では、失礼いたします」
「……うん。気を付けてね」
幽谷は、ゆっくりと頷いた。
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