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 関羽の帰りが遅い。
 何か遭ったのではないかと案じた幽谷は、彼女が向かった筈の曹操の屋敷を訪れた。
 もう日が沈んで時間が経っている。劉備に会いに行って、泊まるつもりなのかもしれない。

 兵士と問答を交わすのが非常に面倒なので兵を飛び越えて屋敷に侵入し、屋根を駆けて劉備の部屋を目指す。
 が、途中で夏侯惇を見つけた。人工的に作られた池の畔で一人鍛錬をしているように見える。

――――彼に関羽様の居所を聞いた方が良いかしら。
 しかし、鍛錬の邪魔をするのは憚(はばか)られる。それに面倒臭い。
 暫し悩んでいると、夏侯惇が先にこちらに気付いた。


「四凶! 貴様そこで何をしている!?」

「……失礼いたします」


 幽谷は夏侯惇の前に飛び降り、頭を下げた。


「このような時間まで、ご苦労様です」

「ここで何をしている。四凶が勝手に曹操様の屋敷内をうろつくなど、許されることではないぞ」

「許しは予(あらかじ)め、あなた方の前でいただいております。此度は、関羽様が未だお戻りになられないので、様子を窺いに参った次第にございます。夏侯惇殿は、何かご存じありませんか?」

「十三支の娘が? 俺が知る訳がないだろう」

「左様でございますか。では、曹操殿にお伺いすることに致します」


 一礼し、幽谷はその場を辞そうとした。

 しかし、何を思ったか、夏侯惇が呼び止める。曹操に会わせるのを阻むかと思ったが、そうでもなかった。


「待て。貴様に一つ聞きたいことがある」

「手短に終わらせて下さるのであれば、お答えしましょう」


 向き直れば、夏侯惇は一旦剣を鞘に戻す。


「貴様は、どんな鍛錬をしている」

「……鍛錬、でございますか?」


 怪訝に問う。

 夏侯惇は頷いた。

 幽谷は困った顔をした。どう答えれば良いか、思案した。


「私の場合、この武は最初から持っていたものです。ですので、私は鍛錬などして強くなったのではありませぬ」

「最初から備えていただと? そんな筈はないだろう。貴様とて苟(いやしく)も生き物だ。それなりに鍛えなければ……」

「ですが、本当にそうなのです。最初から、私は暗殺の術も、弓も剣も心得ておりました。理由は分かりかねますが……」


 これは世平にも話したことだから、彼に話しても問題は無いだろう。
 いよいよ不機嫌に顔をしかめる夏侯惇を見つめながら、幽谷はもう良いのだろうかとぼんやりと思う。これ以上ここで時間を潰すのは避けたいのだが。


「最初から……四凶だからか?」

「さあ、私には分かりかねます。他に成長した四凶を見たことがありませぬ故。これでよろしいでしょうか? 関羽様をお捜ししたいのですが」

「まだだ。俺は、貴様が四凶だから敵わぬと諦めるなどしない。貴様に勝てないのは俺の腕がまだ未熟だからだ。曹操様にも及ばぬ俺が、化け物の貴様に勝てないのも道理」


 ……曹操殿の方が、強いのか。
 少し意外だ。
 首を傾けると、夏侯惇の眉間にぐっと皺が寄った。


「何だ、言いたいことがあるならば言え」

「曹操殿が、あなたよりも強いとは思いませんでした」

「……貴様! 曹操様を愚弄する気か!!」

「ただ思ったことを言ったまでです。曹操殿がお強いとは感じておりましたが、あなた方の力量の差には興味が全く無かったので」


 ひくり。
 夏侯惇の眉が震えた。


「曹操様は知、武の両面において他の将よりも圧倒的に秀でている。優秀な将には優秀な臣下が必要だ。だが、俺はまだ曹操様に見合う十分な武を備えていない。だがすぐに――――」

「その意見には同意見なのではございますが」

「何だ」

「私としては早く関羽様をお捜ししたく存じます。もうよろしいですか?」

「……ああ、十三支の女と共にさっさと屋敷を出て行け」


 不機嫌な声で夏侯惇は言い捨て、鍛錬に戻る。
 幽谷は彼の素振りを見、ぼそりと呟いた。


「……踏み込みが甘い」


 夏侯惇が反応する前に、幽谷はその場を後にした。

 そのまま曹操の私室へと赴き、声をかける。
 応(いら)えがあってから扉を開く。


「どうした、幽谷。今日は、十三支は戦に出ていない筈だが」

「関羽様が陣屋にお戻りにならないので、お迎えに参りました。曹操殿は、何かご存じありませんか?」


 曹操は何かを思い出すようにつかの間遠い目をした。
 ややあって、


「……劉備の部屋に行って、そのまま寝ていると、屋敷の者から報告があった。そのままにしている」

「ありがとうございます」


 幽谷は一礼する。

 そんな彼女に、曹操は目を細めて、


「幽谷。お前は暗殺一家の出らしいな」

「……ええ。関羽様からお聞きになられたのですか?」

「ああ。どの家だ?」

「それはお答えしかねます」


 即座に切り捨てた。
 関羽達も知らないことを、彼に言う必要は無い。
 幽谷は口を閉ざし、脅すように外套の裏に手を伸ばした。

 すると、曹操はにやりと笑い、


「犀(さい)家、か?」


 幽谷の肩が震える。
 それを曹操が見逃す筈もなかった。
 冷たく秀麗なかんばせに浮かぶ笑みが濃くなるのに、苦虫を噛み潰したような感覚を覚える。


「どうやら、当たりのようだな」

「どうしてあなたがそれを……」

「暗殺一家として、犀家は諸侯に有名だ。あの家は成功率が高かったが、ここ数年で急激に落ちている。お前が十三支の村に現れた時期とも重なるようだ」


 推測だ。
 ――――見事に的を射た推測。
 幽谷は顔を歪め匕首を取り出した。

 曹操の笑みは崩れない。


「私を刺すか?」

「……」

「十三支がどうなっても良いのなら、刺せば良い」


 彼は刺せないことを知っている。知っていて、幽谷を嘲笑っている。
 なんて腹立たしい男。
 幽谷は舌を打って、結局は匕首を戻した。


「犀家については、何卒(なにとぞ)他言なさいませぬよう」

「ああ。約束しよう」


 曹操はまるで幽谷を弄(もてあそ)ぶように、嫌な笑みをそのままに彼女を見つめる。

 幽谷はその視線から逃れるように、早足に曹操の私室を飛び出すのだった。



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