12
何もかも呑み込んでしまう闇。
風は無く、草葉の影に虫が鳴いている。
慣れ親しんだその世界を彼女は闊歩(かっぽ)する。不思議なことに、足音は無かった。
深夜の屋敷に人影は無く、彼女の影だけが不気味に蠢いている。
――――と、彼女は一つの部屋の前に立つ。扉を音無く開き身を滑り込ませた。
そこは、とある男の閨(ねや)であった。
今宵の彼女の標的でもある。
依頼の遂行は絶対。狙った標的は、必ず殺す。
彼女は懐から鋭利な刃物を取り出すと、そうっと閨に近付いた。
爆睡する汚らしい男の咽を見下ろし、その上に刃をかざす。
一呼吸置いた後、その手を振り下ろし――――、
扉から飛び込んできた影にその場を飛び退いた。
直後、彼女が立っていた場所に大きな刃がめり込む。
男が悲鳴を上げて飛び起きてしまった。
彼女は舌打ちして窓から飛び出した。一旦退かなければなるまい。
床にめり込む程の大きな戦斧。余程の強力でなくば扱えまい。この屋敷には、存外な程の猛者がいたようだ。予想外な事態である。
一度出直すか――――そう思った刹那である。
湾曲した光が視界に映った。
咄嗟に刃で弾く。
「おや、弾かれてしまいました」
鷹揚な口調は、この場に似つかわしくなかった。
彼女は刃を構え、腰を低くした。
そこへ、妙にはしゃいだ声が上がるのだ。
「張遼ちゃん、その子に怪我をさせては駄目よ。綺麗なまま、捕まえてちょうだい」
挟まれた。
彼女は振り返る。
そこには一人の女性と一人の少女が立っていた。女性は、床を破壊した戦斧を持っている。
「よろしいのですか? この方は、董卓将軍を殺そうとしておりましたが」
「ええ、構いませんわ。だってこの子、とっても可愛らしい四凶ちゃんなんだもの! 是非とも傍に置きたいのですわ!」
「そ、そんな〜! 呂布様、四凶を飼うなんて言わないで下さい〜!!」
はしゃいだ声は止まない。
彼女には、女性の姿が手に取るように分かった。元々夜目は利く方なのだが、こうもはっきり、衣の影、細かい細工すら目視できる筈など無かった。
それに彼女だけが、薄い光を纏(まと)っているかのように見える。
彼女は女性の姿を凝視した。
この感覚は、何だ?
既視感、だろうか。
――――否、違う。
同類だ。
この女性は自分の同類。
はらからなのだ。
そう感じた。
さっと頬を赤らめた女性は、ゆったりと微笑み、唇を舐めた――――。
‡‡‡
……過去のことを、思い出していた。
幽谷は小高い丘の上に一人佇んでいた。
呂布。
張遼。
貂蝉。
得体の知れない三人。
会いたくなかった。
関羽に会わせたくなかった。
嘆息が、漏れる。
すると、不意に。
「――――あのさあ、幽谷。お前自分の足下に気付いてるか?」
背後で声がした。
少しばかり驚いて幽谷は振り返ろうと足を動かす。
が、何かに引っかかる。
「――――あら?」
狼が、いた。
それだけではない。
兎に猪、烏に鷲――――どうしてこんなに動物達がいるんだろう。しかも狼がいるのにくつろいでいるではないか。
おまけにいつの間にか、辺りは暗くなっていた。
幽谷は首を傾げた。
首だけを巡らし、振り返る。
「関定様」
「どんだけそのままでいたんだよ、お前」
呆れつつ、関定は動物達を追い払う。狼に噛みつかれようとしたが、それは幽谷が止めた。
全ての動物達がいなくなって、ようやっと関定に身体ごと向き直る。深々と頭を下げた。
「何かご用でしょうか、関定様」
「関羽が捜してたぜ。んで、陣屋に見えねぇってんで、一人で曹操んとこに行っちまった。菓子作ったから少し遅いけど劉備に会いに行くんだとよ」
「……左様でございましたが。では追いかけて参ります」
「いや、さすがにもう遅いって。それよか、幽谷最近体調崩したばっかだし、何か昨日からぼーっとしてるし、今日は休んどけって」
苦笑し、関定は言う。
されど幽谷は首を横に振った。
「いいえ。休みならば、十分いただきました故。お気遣いありがとうございます」
関定に頭を下げ、幽谷は大股に丘を下っていく。
それを見送りながら、関定は肩をすくめた。
何でまた、無理をしようとするかねえ……。
無理を無理と思っていないから、始末に負えない。
どんだけ周りに心配かけてんのか、分かっているのか。
分かっていないのだろう。
「隈消えてねえのに良くやるわ……」
へらりと笑い、独白する。
また先日のように倒れるのではないか。
幽谷自身身体を大切にしていない節があるので、どうしてもやきもきしてしまう。
関定は大仰に溜息をつき、がりがりと後頭部を掻いた。
「あれでもうちょい化粧っ気があれば、可愛いだろうになあ……」
恋愛でもすりゃあ良いのに。
勿体ない。
彼のその言は、風にさらわれた。
この少し後、幽谷は猫族の男に買い出しを頼まれ、結局関羽の元へは行けなくなってしまったのだった。
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