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 青年の名は趙雲と言った。
 幽州の太守、公孫賛に仕える武将である。
 幽州の公孫賛と言えば、精強なる白馬義従で有名だ。人柄も穏和であると聞く。

 だからといって信用した訳ではないが、ひとまず董卓に幽谷が知られる危険は無くなった。

 彼は、猫族の陣屋まで幽谷を背負うと言って聞かなかった。
 着替えて歩こうとした早々よろめいた所為だ。二日間も寝たきりだったからで、歩いていれば元に戻ると言っても彼は聞き届けてはくれなかった。

 仕方なく負ぶわれて陣屋に戻ると、丁度洗濯物を干していた関羽が二人に気が付いてこちらに駆け寄ってきた。


「幽谷!」

「関羽様」


 趙雲に頼んで下ろしてもらう。

 関羽は幽谷の前に立つと額に手を当てて熱が無いことを確認した。安堵にふっと笑みをこぼす。


「良かった。風邪は治ったのね」

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ですがあの……どうして倒れた時点で、私は陣屋に戻されなかったのでしょう」

「それは、陣屋よりも宿屋の寝台で寝た方が身体に良いと思ったからよ。丁度趙雲が手配してくれて。あの時はありがとう、趙雲」


 いつの間に仲良くなったのか。関羽は趙雲に頭を下げた。

 それに、趙雲はにこやかに首を振って見せた。


「構わないさ。倒れたところに居合わせたのも、何かの縁だしな。しかし――――」


 幽谷が四凶だとは意外だった。

 ……やはり、双眸を見られている。知られている。
 宿屋や町中では人目を憚って問えなかったそれ。
 幽谷は外套から匕首を取り出して身構えた。

 それを慌てて関羽が止める。


「だ、大丈夫よ幽谷! 趙雲にはわたしが話したの!」

「は……?」


 思いも寄らぬ言葉に幽谷は固まる。

 関羽は早口に、幽谷が倒れた時のことを話した。
 曰く、幽谷が倒れ、趙雲はひとまず自身の泊まる宿屋に連れて行ったらしい。それからある程度の処置をしてから町中で関羽を捜し、幽谷のことを伝えた、と。

 そこまでは良いが、二人が幽谷のもとに戻った時には、幽谷は相当な発汗をしていて、眼帯も外さねばならなかったそうなのだ。
 その折に――――幽谷は全く覚えていないのだが――――目を開いて関羽に謝罪したらしい。

 趙雲も見てしまったので、関羽は慌てて彼に幽谷のことを話したそうだ。悪い人ではないむしろとっても優しい子だからとおかしいくらいに必死に弁明したとは、趙雲の言葉だ。


「心配しないでくれ。俺は四凶だからとお前を貶したりなどはしない。ただ、眼帯で片目を隠しているのは勿体ないとは思ったがな」

「……勿体ない?」

「ああ。幽谷の目は宝石のようにとても美しい。隠してしまうのがとても惜しいんだ」


 ……本気で言っているのか、この男。
 幽谷は猜疑に趙雲を睨む。

 趙雲は笑ってそれを受け止める。その余裕さも幽谷の神経を逆撫でする。


「よくもまあ、そんな恥ずかしい歯の浮くような科白を言えるものですね。いっそ感心します」

「? そうか? 俺は思った通りのことを言っただけなんだが……気に障ったなら謝る」

「……謝罪は要りません」


 幽谷は嘆息し、関羽に断ってその場を辞そうとする。

 が、趙雲がその腕を掴んで引き留めるのだ。
 瞬間思わず舌打ちしたのには幽谷も少々驚いてしまった。感情が多少なりとも表面に出るとは……。


「少し、待ってくれないか」

「……何でしょうか。礼ならば改めて何か品をお持ちいたしますが」

「いや、そうではない」


 否定し、彼は振り返った幽谷の顔をじっと凝視した。

 ……何?
 幽谷は眉を顰めた。

――――その刹那である。


 ぐに。


「え……」

「……」

「……」


 どうしてそうなった。
 幽谷の眉間に更に深い皺が生まれる。
 頬が微妙に痛いし、突っ張った感覚がある。

 両の頬を、引っ張られているのだ。

 趙雲に。


「……あの、趙雲」

「……なんれふか」


 そろそろ、キレそうなんだが。
 ぴくぴくとこめかみが震える。
 本当に何なのこの男は。

 沸点に近い幽谷に、趙雲は笑いながら謝った。だが頬を放すつもりはないようだった。


「すまない、だが、どうしても頬を抓りたくなってな。そんなに顔を強ばらせていては、要らぬ疲れが溜まってしまうぞ」

「……よへいなおへわれす」


 と言うか、さっさと放して欲しいのだが。
 幽谷はがしっと趙雲の手を掴んで引き剥がした。頬が痛むが仕方がない。

 すると趙雲は残念そうに苦笑を浮かべるのだ。笑み意外に浮かべる表情は無いのかこの男は。


「笑えば、とても綺麗だと思うんだがな」

「もう一度言いますが余計なお世話です。もう用事は終わったのですからさっさとお帰りになってはいかがです? ここは猫族の陣屋でございますし、曹操軍の監視もあります。かの公孫賛の部下であるあなたがここに長居しては猫族にとっては非常に迷惑です。公孫賛と繋がっていると変な勘ぐりをされたくはありません故、お帰り下さいませ」


 無表情に、早口に、まくし立てるように言って、幽谷は関羽の腕を掴んで趙雲から離れた。
 そしてそのまま関羽が洗濯物を干していたその場所まで移動する。


「幽谷、折角趙雲が運んでくれたんだからあんな態度取らなくても……」

「何か仰いましたか?」

「い、いえ、何でもないです」


 その時の幽谷の顔と言ったらなかった。
 無表情でこんなにも恐怖を感じるものかと、関羽は初めて知ったのだった。



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