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――――何故、あの男と関羽が一緒にいる?
幽谷は茫然と立ち尽くした。
今日も強いられた戦の後怪我人の治療を終えると、陣屋に関羽の姿が無かった。張飛に曹操のお屋敷に報告に行ってしまったのだと聞き、慌てて追いかけた。
さほど時間をかけず、彼女を町中で見つけられる。それまでは良い。
だが――――目の前には、金髪の優男が関羽に微笑を向けている。
あの身形、間違いない。
董卓将軍の部下の女丈夫に従う武将だ。
物影に隠れて外套の裏に手をやる。
されど、関羽に頭を下げると、男は何処ぞへと歩き去っていくのだ。
安堵に全身から力を抜いて、足早に関羽へ近付いた。
「関羽」
「あっ、幽谷! どうしたの?」
「……あまり、一人で洛陽を歩くのは止めた方が良いわ。この間のように人間に攻撃されでもしたら……」
関羽に向けられる蔑視。
そのもとを横目に睨みながら、幽谷は関羽を諫める。
関羽は苦笑した。
「わたしなら大丈夫よ。幽谷だって、無理してわたしに付き合うことなんてないのよ? 村にいた時みたいに、好きに生活して良いんだから。というか、幽谷はずっと働きっぱなしなんだからこんな時くらいは休んでちょうだい」
「だから、あなたを守っているの。あなたが心配なのは、部下でなく友人だからよ。休みなら、不要だわ」
腰に手を当てて幽谷は眉間に薄く皺を寄せた。
「ありがとう。でも、本当に大丈夫。だからそんなに心配しないで?」
それよりも幽谷が倒れてしまわないか心配だわ。
関羽は幽谷の目元にそっと触れた。
幽谷は気付いているのかいないのか、隻眼の下にはうっすらと隈が出来てしまっていた。
先日無理矢理休ませたけれど、それ以来はやはり休んではいないようだった。
本人は疲労に全く気付いていないんじゃないか、そう思えてしまう程に、彼女はいつもいつも表面的には至って普通に振る舞っていた。
だがさすがに隈が見えてしまっては周囲も彼女の疲労に気付く。このままの状態で劉備に会わせるのは駄目だと、関羽は世平達に言い含められていた。
今日もそれで、幽谷を置いて劉備に会いに行こうとしていたのだけれどまさかこんなにも早く見つかるとは思っていなかった。
こっそりと溜息をつく。
「幽谷、暫く休んで? 本当に皆心配しているのよ? 戦の時だって、ほんの少しだけど最近動きがいつもより鈍くなっているって世平おじさんも言っていたわ」
「……」
確かに、それは自覚している。
こんなにも身体が鈍っているとは自分でも思っても見なかったが、だがまだ問題と言う程でもない。
それを言うと、関羽はいよいよ眉をつり上げた。
「自覚があったのね? じゃあ、休みなさい!」
「しかしそれでは関羽の身に何か遭った時、守れないじゃ――――」
「良いから! 陣屋に戻って休みなさい! じゃないと、次から戦に出るのは許さないわ」
「分かった?」なんて凄まれて、幽谷は思わず後退する。主人であるからか、大して怖くもないのに迫力を感じてしまう。
やがて、観念した幽谷はやおら頷いた。
「……分かり、ました」
「良かった」
途端に笑顔になる関羽。
彼女を恨めしく見つめていると、関羽は何度も早く陣屋に帰るようにと釘を刺してから、曹操の屋敷へと行ってしまった。
残された幽谷は、置いて行かれた子供のような心地になりながら、急激に遠退いていく主の背中を見送るのだった。
‡‡‡
くらり。
くらり。
何故だろうか。
急激に身体が重くなった気がする。
ようやっと休める――――身体が無意識にそう認識し、気を弛めてしまったのだろうか。
それに総身が火照って思考もぼうっとする。息も、段々と荒くなっている気がする。
幽谷の記憶によれば、これは風邪の症状だ。
ああ、しまった。また気付けなかった。
これではまた関羽達に怒られて――――。
次第に視界が滲んでいき、足から力が抜けていく。
まだここは洛陽の市街だ。こんな場所で倒れる訳にはいかない。
せめて陣屋の近くまで……。
「おい、どうしたんだ?」
「……っ!」
誰かに話しかけられる。後ろからだ。
そちらに意識を向けた瞬間、視界が下に下がった。
同時に、意識も暗転する――――。
ごつっ。
「おい!? 大丈夫か!?」
声が一際近くなったのに、幽谷は何も返せない。
‡‡‡
目覚めた時、視界は真っ暗だった。
何処かの部屋だというのは辛うじて分かる。
されど匂いが、全く違った。
上体を起こし、目が慣れるのを待って周囲を見渡す。
そこで気付いたのだが、自分の身形が違う。今の自分は肌着代わりの黒い服のみの姿だった。外套などは全て折り畳まれて寝台の脇に置いてあった。暗器も全て横に、丁寧に並べてあった。
どうして……、私の服が?
幽谷は記憶を手繰る。だが漠然としていて、酷く曖昧だった。
どうして私はここにいるのだろう。
誰かここに運び込んだのか……。
がちゃ。
「ああ、起きたのか」
「!」
咄嗟に寝台から下りて身構える。
暗闇では輪郭がぼんやりと見えるだけだ。
こいつは、誰だ?
「大丈夫だ。俺は敵じゃない。関羽達にもすでに言ってある。というか、関羽はついさっき帰ったばかりだ」
「……」
男が灯台に火を点ける。
それで、男の姿が露わになった。
「あなたは……」
この間、董卓将軍の屋敷へ行こうとしていた青年だった。
肩から力が抜け、言いしれぬ倦怠感が幽谷を襲う。
寝台に腰掛けて長々と嘆息した。
青年は幽谷に歩み寄ると、幽谷の額に手を当てた。
「もう、大丈夫そうだな」
「……あの、私は一体……」
「ああ。町で倒れたんだ。風邪を酷くこじらせていて、もう二日も寝ていた。覚えているか?」
言われ、そんな気がする。しかしまだはっきりとは思い出せなかった。
「まだうっすらとしか……」
「そうか。無理もないな。目覚めたばかりだが、もう寝た方が良い。明日関羽達に……いや、彼らのもとに連れて行った方が良いだろうか」
この男を信じて良いのか……。
幽谷は探るように彼を見、しかしすぐに頭を下げた。
「出来れば、お願いしたく存じます」
「分かった。では、俺は隣の部屋にいるから、何かあれば呼んでくれて構わない」
薄く笑い、青年は部屋を出ていく。
危害を加えるつもりはないようだが、倒れる前後の記憶が無い故にまだ油断は出来なかった。
あの青年……武人のようだ。
董卓将軍の関係者、かしら?
だとすれば私の正体が知られたら、捕らえられてしまうのかしら。
「……眠らない方が、良いかしら」
どうして陣屋に送らなかったのかも、疑問である。
幽谷は扉を見据え、ふと顔の違和感に気が付いた。
そして顔に手を這わし、愕然とした。
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