8
幽谷は暗闇の中一人立っていた。
深い深い夜の闇。
慣れ親しんだ漆黒の世界。
猫族は皆、もう寝静まっている頃だろう。
今日も黄巾賊討伐の為に戦に駆り出されたのだから、疲労も手伝って深い眠りについている筈だ。
幽谷も疲労が溜まっているとは思うが、眠る気にはなれない。
どうしても、曹操が信用ならないから。
彼女の前には堅牢な城壁がある。その中央にある扉からいつ曹操軍が襲ってくるか、どうしても警戒してしまうのだ。
劉備は大丈夫だろうか。
辛い目に遭わされていないだろうか。
曹操に対する猜疑(さいぎ)は尽きない。
――――それに加えて、張角の言葉が脳裏にこびり付いて離れないのだ。
『四凶など、愚かなる人間どもが勝手に付けた卑しき名だ。お前は四霊。天下泰平の為に遣わされた聖なる者なのだ』
彼は幽谷を四霊と呼んだ。
四凶である筈の、幽谷を。
四霊という存在は、幽谷のように人として生まれる例があるのだろうか? この色違いの瞳が、その証だとでも言うのか。
だがそのような存在、幽谷は聞いたことが無い。
彼は四凶は人間達が勝手に付けた蔑称だと言った。幽谷は本来四霊という存在なのだという。
私が四霊?
でも確かに、饕餮の証として、左の脇下に目のような痣がある。
私は、どちらなの……?
もっと詳しく聞けば良かったと後悔している。
関羽達に悟られまいとひた隠しにしてきたけれど、幽谷は張角の言葉にすっかり混乱していた。
自分は四凶だと、そう信じて生きてきたのに、実は四霊だなんて言われたって……。
幽谷は重い溜息をついた。
いっそ気にしなければ楽だ。何度もそう思った。
されどどうしてか、異様に気になってしまう。
捨て置いてはいけないような、何かの圧力を胸に感じるのだ。
考えても、混乱するだけで分からないのに……。
もしかして、あの《声》に何か関係が――――?
「幽谷?」
「!!」
不意に背後で聞こえた不安そうな声に幽谷は肩を跳ねさせた。
ぎょっとして振り返れば、心配そうに眉尻を下げた関羽が立っている。
こんなに近くまで彼女が来ていたのに気付かなかったなんて。思案に没頭しすぎたか。
関羽に慌てて拱手し、幽谷は取り繕うように笑った。
「どうしたの? もう夜も遅いわ。もう寝なくては……」
「幽谷こそ、毎晩こんなところで何をしているの? もしかして、また曹操の監視、とか?」
ああ、知られていたのか。
幽谷は苦笑した。
「曹操の監視……というよりは、曹操がこちらに軍を差し向けたりはしないか、警戒しているだけよ」
「幽谷……あなた、また暫く寝ていないでしょう? あなたが一番頑張っているんだから、沢山休まないといつか身体が壊れてしまうわ」
「あら、私の身体はとても丈夫なのよ。だって四凶だもの。だからあなたは気にしないで、早く休んで。ここにいると身体を冷やしてしまうわ」
関羽はむっと唇を引き結ぶと、幽谷の手を取った。
「え?」
「それを言うなら、幽谷の方が冷えているじゃない。早く帰りましょう、幽谷」
「あ、いや、私はここに……」
「良いから! 気付いていないだろうけど、あなたのこと皆心配しているのよ。いつか倒れるんじゃないかって。ほら、村に来たばかりの時、風邪を引いた状態で狩りに出かけて物凄く悪化させたことがあったでしょう」
……そう言えば、そんなこともあった気がする。
確かあの時、風邪を引いていると分からなくてただ身体が熱くて咽が痛くて思考が少しぼんやりするだけだって思っていたから普通に狩りに出て、そして本当に思考が回らなくなって気絶したところを運良く関定が見つけてくれて……三日くらい昏睡状態だった、ような気がする。
世平と蘇双、そして関羽にこっぴどく怒られたっけ。その後、一週間外出禁止にされもした。
その時のことを朧気ながら思い出し、肩をすくめた。
「あの時は、風邪という病気がどんなものか知らなかったから……」
「世平おじさんが今までどんな病気にかかってたのか訊いたら、何処かの村で貰った流行病だけだって答えたのには、さすがに驚いたわ。あの時聞き損ねたのだけれど、病気は水では治せないんでしょう? どうやって治したの?」
「悪化して気絶して……目覚めた時には完治していた、かしら……」
ただ、約一週間という時間が経っていたことには驚いたけれど。
それを言うと、関羽は顎を落とす。
「い、一週間昏睡で流行病を完治……。それも、四凶だってことと関係しているのかしら?」
「恐らくは。ただ、四凶が成長した例は私以外にいないから確証は無いわ」
むう、と関羽は考え込む。
幽谷は首を傾げた。
「じゃあ、あの時三日間昏睡して、起きた後凄く元気だったのも流行病の時と同じだったってこと?」
「そうでしょうね。だから、気にしないで」
「でもやっぱり病気をしないに越したことは無いわ。さあ、戻りましょう!」
関羽は幽谷の言葉に緩くかぶりを振ると、身を翻して幽谷を引っ張って陣屋へと戻り出した。
幽谷は片眉を上げて笑い、彼女に従う。
彼女の温もりがじんわりと広がっていく。
安堵にも感覚が胸を満たすのが分かった。
しかし、幽谷の中には、蟠(わだかま)りが残ったままである。
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