幽谷は一人洛陽の街を歩いていた。

 猫族が洛陽の外に住むようになってからはや数日。
 毎日のように望まぬ戦に駆り出され、その度に報告の為に洛陽に赴く。

 報告は、基本関羽と幽谷の仕事だった。
 だが今日は関羽が腕を斬り付けられたので、安静にさせている。毒は無かったようだが、同時に捻挫もしているようなので、後で幽谷が方術で癒すつもりだった。


「曹操殿」


 兵士を通すのが面倒だったので、忍び込んで曹操の私室を訪れる。
 丁度文官と話していたらしい彼は窓から突然現れた幽谷に驚きつつも、平静のまま向き直った。

 ……文官は腰を抜かしているが、放っておいて良いのだろうか。


「どうした」

「此度の討伐も終わりました故、ご報告に参りました」

「いつもは関羽も一緒だった筈だが?」

「関羽様はお怪我を負われましたので、不肖ながら私だけが参りました」


 曹操は沈黙する。


「では、私はこれにて」


 劉備の様子を見てくるようにと、関羽から頼まれている。
 幽谷は思案顔の曹操に頭を下げ、入ってきた窓から出て行こうと桟に足をかけた。

 が、そこで曹操が彼女を呼び止める。


「待て」

「……何でしょう」


 足をかけたまま肩越しに振り返ると、何かを投げて寄越される。
 丸い小箱に入れられた軟膏だ。

 幽谷は怪訝な顔をした。


「……これは?」

「関羽に渡せ。心配せずともただの薬だ」


 薬……関羽に?
 それは、少しであれど彼女を案じてのことなのだろうか。
 探るように曹操を見つめると、彼は鼻で笑い、


「関羽は猫族の中で随一の実力。使い物にならなくなってもらっては困るのでな」

「……でしたら、不要です。私がおります故」


 それをすぐ側の寝台に放り投げた。それ以外に乗せられるような場所が無かったのだ。
 幽谷は寝台に転がったそれを見届けると、曹操に会釈して窓から外に飛び出した。



‡‡‡




 幽谷が劉備の部屋を訪れると、何故かそこには夏侯惇がいた。
 劉備に菓子を与えているように見えるのは、錯覚だろうか?


「あっ、幽谷!」


 劉備は顔を輝かせて幽谷に抱きついた。

 幽谷は笑みをこぼして彼の柔らかな髪を撫でた。幽谷の手が耳を掠めると、擽(くすぐ)ったそうに身を捩(よじ)る。それでも、彼は嬉しそうだった。


「関羽は? 今日は一緒じゃないの?」

「はい。関羽様は今日は御用がございまして、いらっしゃいませんでした。ですが代わりに、劉備様のお話を私が全てお伝えするようにと仰せつかっております」

「……分かった。じゃあ、いっぱいお話しよ」

「はい」


 ……視線を感じる。
 ちらり、と視線を動かせば、夏侯惇と目が合った。すぐに離されてしまったが。

 彼は関羽と報告に訪れる度幽谷に手合わせを命じてくる。余程四凶に劣っているのが許せないらしい。
 その度に冷たくあしらっているが、どうもしつこい。夏侯淵に止めるようにと言われても止めないのだから、もはや筋金入りの強情さだ。

 正直、うざったく感じている。何故こんなに強さに固執するのか、甚(はなは)だ疑問であり、今ではすっかり苦手意識も芽生え始めていた。
 そんな夏侯惇にはもう会いたくなかったのだが、まさかこんなところで会ってしまうとは。
 不運だ。


「幽谷、夏侯惇が持ってきてくれたお菓子、おいしいよ!」

「それはようございました。夏侯惇殿、ありがとうございます」

「……別に。五月蠅くて敵わんからだ」


 夏侯惇は顔を背けてぼそりと呟く。

 幽谷は彼に頭を下げて、劉備に導かれるまま寝台に腰掛けると、自然夏侯惇の隣になる。
 刹那、夏侯惇ががばっと立ち上がって幽谷から離れた。


「……何ですか。四凶だから触るなとでも?」

「っ……俺は、」

「幽谷! これがいちばんおいしいの!」

「あら、初めて見る菓子ですね。いただきます」

「どーぞ!」


 劉備の無邪気な笑顔に幽谷もつられる。相好を崩し、手渡された菓子を口に入れた。……甘いがしつこくなく、風味がふわりと口腔内に広がる。
 確かに、高級な味わいで、美味しい。


「おいしいでしょう!」

「はい。都ではこのような菓子があるのですね」


 初めて食べる。
 関羽にも食べさせてあげたいものだ。
 そんな幽谷と、劉備は同じことを考えていたらしい。


「関羽にも、もっていってあげて!」

「畏(かしこ)まりました」

「あ、あとね、昨日おえかきしたんだよ! 関羽と、幽谷をかいたの! 見せてあげるね」

「……光栄です」


 絵を探して部屋の中をぱたぱたと動き回る劉備を微笑ましく眺めながら、幽谷はふと気が付いた。


「……あら?」


 夏侯惇が、忽然と消えていた。
 いつの間にか部屋を出て行ってしまったらしい。

 まあ、どうでも良いけれど。
 幽谷は彼に手合わせを強要されなかったことに安堵しながら、絵を持ってきた劉備にまた笑顔を浮かべるのだった。



‡‡‡




 陣屋に戻ると、大きな笑声が聞こえてきた。
 その直後に、


「うわーん! 姉貴の馬鹿ー!」

「!」


 張飛の泣き声が聞こえてくる。
 と同時に天幕の影から張飛が何処ぞへと走り去っていく。

 一体、何があったのかしら。
 幽谷は首を傾げた。
 姉貴と言っていたから、関羽様とお話ししていたのだとは思うけれど――――。


「――――もしかして、」


 関羽様にフラれたのかしら?
 いつものことだとは思うけれど。
 それでもめげないのが、張飛の良いところだ。

 涙を拭いながら走っていく彼の背中を眺めながら、幽谷はくすりと笑った。
 心境的には、母親のそれに近いのかもしれない。
 母親というものが、幽谷にはよく分からないので、定かではないのだけれど。



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