それから万が一の時に備えて曹操の屋敷内の構造を叩き込んだ幽谷が戻ると、彼らはすでに洛陽を出ていた。
 荘厳な佇まいを見せる城壁に寄りかかったりなどして、話し合っている。

 この冷たく暗い夜闇の中、人の目には彼らが猫族であるとは判別できないだろう。
 幽谷が札を口から外して歩み寄ると、張飛が最初に気付いてくれた。大きく手を振って幽谷を呼んだ。


「幽谷ー! 何処行ってたんだよお前」

「申し訳ございません。張飛様。曹操殿の屋敷の構造を調べて参りましたので少々時間がかかってしまいました」


 こうべを垂れて謝罪すれば、「よくやるなぁ」と。


「それで、皆様はここで何をなされておられるのです? 誰かを待っているかのように見えますが……」

「待ってるんじゃなくて、待たされてんの。野営地を用意してやるから待ってろって偉そうによー」


 不満たらたらに唇を尖らせる張飛に、笑みがこぼれる。血の気の多い少年ではあるが、転じて表情豊かなのが張飛であり、幽谷も好ましく思っている。むしろ、憧憬(どうけい)すら抱いている。


「では、ここに使いの者が来るのですね?」

「来るか分かんねーけどな」

「では、それまで私と組み手でも致しましょう。曹操殿の屋敷でも、黄巾賊討伐の折にも、鬱憤が溜まっておられましょう」

「マジで!? いやー、助かる! 関定殴るだけじゃ足りないくらいに腹立ってたからさー! 幽谷なら本気でやれるからすっきり出来そうだな」

「オレ殴られる予定だった訳!?」


 相当、苛立っていたらしい。
 まあ、あんな環境では致し方ないのかもしれない。
 幽谷は苦笑を浮かべ、張飛から距離を取る関定に頭を下げた。


「それでは張飛様、少しだけ離れましょうか。関羽様、行って参ります」

「ええ。手合わせでも、怪我をしないようにね」

「はい」


 関羽にも頭を下げて、歩き出した張飛に続く。

 彼は関羽達から、そう離れなかった。何かあった時に備えてだ。
 張飛が真顔になって構えを取ったのに、幽谷も答えて拳を握り締めて腰を低くした。


 同時に地を蹴る――――。



‡‡‡




 張飛の息が上がる頃、曹操からの使いは現れた。
――――何故か、夏侯惇だった。

 うへぇ、と嫌な顔をする張飛に笑い、幽谷は一緒に関羽達のもとに戻った。


「曹操様が貴様らに土地を用意して下さった。今から案内してやるから、ついてこい」


 偉そうな口調に、張飛が舌打ちする。
 幽谷ははあと溜息をついた。

 夏侯惇はそれに気付いたが、構わずに鼻を鳴らして歩き出す。

 憮然としながらも、皆それに続いた。

 夏侯惇が連れてきたのは、洛陽からそう遠くない場所だった。
 天幕などはまだ無いが、ある程度の食料や寝具などがまとめて置かれてあった。


「他は明日になる。今日はそれだけで我慢しろ」

「ええ。ありがとう」

「それと四凶。お前は今後これを着けて生活しろ」


 ぞんざいに投げ渡されたのは黒い眼帯だった。
 目隠しではない。


「片目を隠すだけでよろしいので?」

「曹操様の温情だ。ありがたく思え」

「……ありがたく受け取らせていただきます」


 両目でなくて良かった……。
 両目を隠して人通りの多い都に入れば、絶対に誰かを殺してしまう。
 かといっていつまでも札を銜えて洛陽を移動するのも、札は数に限りがあるから難しいし……正直、助かる。
 素直に礼を言って頭を下げておいた。そうして、早速眼帯を着ける。どちらに着けようかと考えたのは一瞬で、すぐに右に着けた。適当に決めた。


「どう? 幽谷?」

「ええ。両目を隠す程不自由はありません。ただ、片目なので少しだけ戸惑いますが、すぐに慣れましょう」

「……でも、無理しないでね」

「ありがとうございま――――」


 刹那。
 耳元で風の音を聞いた瞬間、幽谷は動いた。

 音のもとを匕首で弾き持ち主の首を鷲掴む。そのまま押し倒して馬乗りになると、その人物は息を詰まらせて呻いた。


「……何をなさるのです、夏侯惇殿」


 彼の手には剣がある。
 先程の音は、彼が幽谷に斬りかかった際のものだったのだ。

 幽谷は夏侯惇を無機質な眼差しで見下ろし、問いかける。

 夏侯惇は悔しげに幽谷を睨(ね)め上げた。

 徐(おもむろ)に手を離してやると、彼は剣を振るって幽谷を斬り付ける。


「幽谷!」


 幽谷は身体を後ろに倒してそれを避けた。夏侯惇の上から退いた。


「テメー! いきなり何しやがんだ!」

「四凶に俺が劣ると……? そんなのある筈がない……」


 夏侯惇は呟く。
 それを聞いたのは、恐らく幽谷だけだ。

 夏侯惇が立ち上がって剣を構える。


「俺と戦え、四凶」

「……四凶とは、私のような者達の総称です。私は幽谷という名前です」

「貴様に名など必要無い。ただの穢れでしかないのだからな」

「ならば、私はあなたとは戦いませぬ」


 拒絶した。

 それに、夏侯惇は目を細める。


「何だと……?」

「私が穢れでしかないのであれば、あなたと戦う理由はありませぬ。あなたにとって私は武人でも人でもないのだから」


 それに――――これは夏侯淵にも言えることなのだが――――彼の相手をするのは面倒だ。
 四凶だの十三支だの、差別意識の高さにいい加減苛々する。

 別に四凶が汚らわしい存在なのは自覚しているから構わない。昔はそう思い込んで死のうとしていたのだし。
 だが、猫族に関しては違う。
 彼らは蔑まれるべき存在では決してないのだ。
 それを知ろうともしないで人間が偉いだと盲信し、自らの世界を閉ざす。

 汚らわしいのは、どちらだか。


「案内していただき、ありがとうございました。お気を付けてお帰り下さい」

「っ……待て!」


 幽谷は匕首を収めてきびすを返すと、関羽に周囲を見て回ってくると言って夏侯惇の制止の言葉も聞かずに歩き去っていった。

 夏侯惇が、関羽達が去った後の広間で幽谷に劣っていることを曹操に遠回しに言われたことを気にしているのには気付いている。
 だが、幽谷は四凶。夏侯惇は人間。
 夏侯惇は人間としての高みを目指せば良い。四凶の幽谷と比べる必要など無いのだ。四凶は、化け物なのだから。

 それを言ったとて、彼が納得してくれるとも思えないので今は言わないが、あまりにしつこければ諭してみるか……。
 幽谷は、夜陰に身を溶け込ませて気配を消した。



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