ようやく、戻ってきた。
 待っておれ、卑しき者よ。




‡‡‡




――――久方振りの洛陽。
 古は平王の時代、洛邑と称されていた頃より漢民族の政治経済の中心になっていたこの都は、美しい建造物が建ち、行き交う人々も賑やかだ。猫族の隠れ里や桑木村など、比べものにならない程に活気づいている。

 されど、ここで暗殺に失敗した幽谷は、その時のことを否応なしに思い出されて暗鬱とした心持ちだった。圧倒されている皆に隠れて嘆息して、懐から一枚の札を取り出した。

 さすがに大勢で押し掛ける訳にもいかず、董卓に目通りした際のように猫族の大半を都の外に残し、代表数人で都に入って曹操に連れていかれた劉備を捜すこととした。

 幽谷の手にあった札に気付いた関羽が、


「幽谷、お札を使うの?」

「はい。四凶ですから。目隠しは使えなくなってしまいましたし……」


 千切って捨ててしまった目隠しを思い出し、幽谷は苦笑を浮かべる。
 あの後、多数の討伐軍の兵士に見られ、陣屋は大騒ぎになってしまった。陣屋をすぐに立ち去ったから良かったものの、黄巾賊により疲弊したところに帝のおわすこんな都で四凶が現れたらば、即座に討伐命令が下るのは必死である。猫族も一緒に討伐されかねない。そうなれば曹操を捜すどころではないし、劉備も危うい。

 関羽に頭を下げてから、何事か、模様のように描かれた札を口に銜(くわ)える。こうすると、周囲は幽谷に全く気付かないのだった。猫族の隠れ里にて、夏侯惇に肉迫した際に使った札と同種の物だ。
 幽谷は方術を扱える。ほとんど札を使うが、時には札を使わずに幻を見せたりなどもする。府だと違って確実性は無いのであまり好んでやりはしないけれど。

 幽谷が関羽達と別行動で曹操の屋敷を探すことは、都に入る前に話し合って決定している。多少なりとも洛陽の地理に詳しく、隠密行動の得意な幽谷が独自で動かした方が効率が良いからだ。

 曹操の屋敷を見つけたならば、屋敷に進入はせず、速やかに関羽達に報せること。それが世平の命だった。
 関羽は曹操に会い、彼の考えを知ってから劉備を取り返すと言った。あまり乱暴なやり方では、話し合いが穏便には済まなくなってしまう。劉備の身柄が曹操のもとにある限り、こちらが圧倒的に不利なのだ。

 幽谷は跳躍し、すぐ横の店の屋根に登った。

 そこから神速を以て屋根伝いに移動し、周囲を隈無く探す。

 曹操殿でなくとも、せめて夏侯惇殿達がいれば――――。

 と、左の民家に飛び移った時である。
 曹操軍で見た覚えのある兵士が、仲間と談笑しながら道を行っているのが見えた。

 しめた。
 彼らの後を追えば、曹操の屋敷に辿り着けるやもしれぬ。

 幽谷は、民家から飛び降りて彼らの後ろに付いた。人に悟られない術をかけた札を口に銜えているから、例え剣一本分でも、それ以上の距離でも悟られることはない。


「しっかし、曹操様も何考えてるんだろうなあ。十三支を連れて帰るなんてさー」

「さあな。十三支なんて連れてたら、そのうち帝からの信用も無くなっちまうんじゃねえの? 俺達、大丈夫なのかなあ……」


 下っ端には当然ながら、曹操の真意は知らされていないらしい。
 側近の夏侯惇達ならば知っているだろうか?

 ……否。
 彼は――――勿論これは幽谷の推察に過ぎないのだが――――家臣すら信用していないように思える。自らの深い部分を晒すことは、彼の深い闇を湛えたような鋭利な眼差しからは考えられない。
 やはり本人に問い質した方が良いか。

 兵士達は幽谷の目論見通り、曹操の屋敷と思われる豪奢なそれの門を潜った。
 幽谷は跳躍して門を飛び越え敷地内に侵入する。

 すると、少し離れた場所で夏侯惇と思しき怒声が聞こえてきた。その内容から察するに、兵士の鍛錬を見ているようだ。
 鍛錬場へそっと入って彼の姿を確認すれば、いよいよ、間違い無い。

 深くまで侵入はしない為、肝心の曹操の姿は確認できないが、取り敢えず夏侯惇の姿が確認できただけでも良しとしよう。ざっと敷地内を見るに、ここが夏侯惇の邸だとは考えづらいし。
 幽谷はくるりときびすを返すと、そのまま屋根に上って急いで関羽達の元へと戻っていった。

 夏侯惇達は、幽谷に全く気付いていなかった。



‡‡‡




「……あの、皆様……如何なされたのです」


 市街から民家の建ち並ぶ閑静な場所に移動していたらしい関羽達は、何故か全力で走ったかのように呼吸荒く、疲れていた。そして関定が申し訳なさそうに肩を落としている。

 人気が無いからと幽谷は一旦札を口から離して彼らを見回した。

 幽谷に答えたのは、世平だ。


「関定が人間に話しかけてな。それで、大騒ぎになっちまったのさ」

「……そうなることは、十分予想できた筈では……」

「……うぅ」


 関定が沈む。

 幽谷が謝ろうとして口を開いたが次の瞬間、人の気配を感じて再び札を銜えた。


「そこの十三支、待て!!」


 数人の兵士が関羽達の前に現れる。

 関羽達は咄嗟に身構えた。幽谷も、外套に手をやる。


「十三支を見かけたら連れてくるよう曹操様から言われている」

「ええ!?」

「やっぱりあいつの思惑通りか」


 兵士が武器をちらつかせて同行するよう命令する。

 思わぬ招待である。
 だが、丁度良い。
 世平達は、迷うこと無く兵士に従った。

 幽谷も、札を口に銜えたまま彼らの後に続くのだった。



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