終わりの日
※死ネタ
※二人の間に子供がいます。
命の崩壊は、まるで覚悟を決めるまで待ってくれているかのように、牛の歩みよりもゆっくりと進んだ。
最初に訪れた崩壊は、味覚の消失。
徐々に料理の味が薄まり、やがて舌は温度と感触だけしか感じなくなった。
病気だとは思わなかった。
嗚呼、崩壊が私に歩み寄ってきたのだと、殊の外すんなりと受け入れることが出来た。
夫とて、そう。
まず一番に伝えたのは夫だ。
それから数日置いて、夫に説得されて主と仰いだ娘と、長らく世話になった種族に、終焉が近いことを伝えた。
皆、悲しまぬ者は無かった。
夫と違い、彼らは何か方法は無いのかと、償いとして面倒を見ている同胞の娘と、偶さか訪れていた仙人に知恵を乞うた。
されども崩壊は免(まぬか)れぬことである。
そもそも有り得ぬ命に生を許されたからこそ、自分はここに在る。これ以上の何を望もう。
私は、もう十分幸せだ。何も必要無い。
崩壊――――死すら、諸手を広げて迎えられる。
それだけのものを、大勢の人々から与えられたのだ。
故に、生きたいなどと言う願望は浮かばなかった。
言わずとも、夫にも、主にも、それは伝わってくれた。
彼らは周りを説得し、それまでと変わらぬ生活を通してくれた。
まだ年端も行かぬ我が子にも、母の死が間近であることを、知らせた。
子供心に思うところは予想するに難(かた)くない。
されども母に気を遣い、父に倣(なら)って平素の暮らしに努(つと)めてくれた。
自分は、きっと誰よりも恵まれた人生だと思っている。
仮に生まれ変わることを許されても、こんな結末は迎えられまい。
死に近付いていると悟ってから、毎日毎日充足感を得た。
嗚呼、幸せだ。
私は、なんて――――……。
‡‡‡
もう、ほとんどの感覚を失った。
……もう、そろそろ、だ。
そろそろ、私は逝く。
残り僅かな命に残されたのは、うっすらと感じる程度の触覚のみ。
感度は低くても手を握られて抱き締められていることは分かる。
そしてそれが、最愛の夫であることも、分かる。
崩壊は、最期に恩情をかけてくれた。
いつもなら手を握って、きっと何かを話しているだろう夫はどうしてか今日に限って抱き締めて放さない。
彼も彼なりに、察するところがあったのかもしれない。主以上に一緒に時間を過ごすようになった彼ならば、微かな異変に気付くやも。
思えば、今日は昨日よりも力が入らない。
朝からずっとこんな調子で、夫の手を満足に握り返せていない。
それに……どうしてか、今は温暖な季節である筈なのに、肌寒いような気がする。
今は抱き締められているから温かさはあるが、外では雨でも降っているのだろうか。
ならば今頃、子供は室内で暴れ回っているだろう。色んな武将達に構ってもらって、その無邪気さで困らせて、城中を駆け回って。
つい、笑ってしまった。そう感じたのは触覚だけで、声は出たのか分からない。変な声になってしまうから出なかったと思いたい。
さすがに、死に近い今、醜い姿を夫に覚えていて欲しくない。
頭を撫でられた。髪を梳(す)くようにゆっくり、優しく。
私は幸せだ、と。
今は、それしか思わない。
《幽谷》と言う人生は、酷く汚れている。拭っても洗っても、こびり付き、染み着いた無数の汚れは重なり合って決して取り去ることは出来ない。
何故ならその汚れは、罪だから。
生まれてはならぬ個であり、長いとも短いとも言えぬ時の中で数え切れぬ罪を背負った自分に、幸せは寄りつかない筈だった。
けれど今、幸せの真綿に包まれて、死を迎えようとしている。
幸せを噛み締める以外に、何が出来るのか自分には分からない。
夫の肩であろう硬い部分に頭を押しつけると握られてた手にまた別の温もりが触れた。夫よりも柔らかくて小さな――――子供の手だ。
嗚呼、そこにあの子もいるのね。
吐息を漏らすと、ふと、ぞくりと身体が震えた。
……とても、寒い。
私に触れる体温はやや温かい筈だのに、一気に寒くなった。触覚が寒さに対してのみ性能を取り戻したみたいに、とても寒い。
その所為だろうか、辛うじて感じられてい感触すら、薄まっていくような――――。
……いや、いや。
これは、私の意識が遠退いてるんだわ。
寒いのは、気温ではない。寒い所為で感覚が麻痺しているのではない。
そう、なのね。
私は、《離れていっている》のね。
死んでいく。
私は、この世から消えて亡くなる。
なんて幸せなのでしょう。
ここには、夫と子供がいる。
夫に抱き締められて、子供に手を触れられていて。
本当はもう一人、ここにいて欲しい人がいるけれどそこまで望むのはさすがに我が儘に過ぎる。
幸せの中で逝くなんて、とても贅沢な結末。
命の崩壊を穏やかな心地で受け入れた。
悔いは無い。汚れた私は十分過ぎる終わりだもの。
……。
……嗚呼、でも。
強いて言うなら声が出せないのは、ほんの少しだけ悔しい。
だって、声が出せていたなら、最期に二人に「愛しています」と言えただろうし、この場にいない主に伝言を頼めたでしょうから。
‡‡‡
今朝からずっと、胸が騒いでいる。
どうしても、妻から片時も離れてはならないような、そんな気がした。
それを正直に上司に明かすと、彼は即座に一日側にいろと命じてくれた。
故に、夏侯惇は今、幽谷の身体を抱き締め、昨日よりもほとんど力の入らぬ細い手を握り締めている。
幽谷はもう衰弱しきっており、僅かに残った感覚だけで、夏侯惇達を感じている。
もうすぐ彼女の命は尽きるだろうと、恒浪牙は一昨日告げた。
夏侯惇にその死を止める気は無い。
幽谷自身がその死を受け入れているのだから。
幸せな今に死ねることを、彼女はとても喜んでいる。
なればこそ、夏侯惇は彼女の感じる幸せを、少しも壊さずにいようと子や猫族と共に心を砕いた。
こんなにも妻に尽くす姿を、昔の己は絶対に想像し得ない。
だが夏侯惇自身も、今をこそ幸せだと思う。
幽谷は少ない寿命を夏侯惇の妻として費やすことを選んでくれた。
夏侯惇に気を遣ったのではなく、彼女自身の意思で関羽よりも夏候惇に残りの人生を託そうと、選んでくれた。
そんな彼女に尽くすことを、どうして厭おうか。
長く幽谷の身体を支える腕が痛みを訴えても、夏侯惇は幽谷を放さない。
幽谷が、小さく笑った。微笑む口から漏れた、声の無い吐息だけの笑声だ。
つられて夏侯惇も口元が綻び、髪を軽く梳いてやった。幽谷の頭が、甘えるように肩に弱々しくすり寄ってくる。
我が子が部屋に遠慮がちに入ってきたのは、その時だ。
そっと顔を覗かせて中の様子を窺う子を、夏侯惇は招き入れる。
「お前も、母様の手を」
「……はい」
子は小走りに寝台に駆け寄り、夏侯惇が握る痩せた母の手に触れた。
僅かに母の手が反応すると嬉しそうに丸い目を細める。
幽谷は、我が子の手と分かったのだろう。ほうと吐息を漏らした。
――――されど、その瞬間。
細い身体からどっと力が抜けたのだ。
「! 幽谷……?」
「とうさま。かあさまが、わらっていらっしゃいます」
「――――」
夏侯惇の身体からも、力が抜けた。
浮かんだ微笑みは穏やかで優しく、本当に、幸せそうだ。
――――そうか。
これが、お前の死に顔か、幽谷。
心の中で、そっと声をかける。
幽谷の身体が、どんどん、冷えていく。
死が彼女を連れ去っていく。
夏侯惇は最愛の妻の額に、そっと口付けた。
「俺は……未来永劫、お前を愛している。死んでも、なお」
「……とうさま?」
「……」
夏侯惇が笑いかけると、我が子は察して身体を強ばらせた。一瞬、泣きそうになった顔を片手でぱちんと強くはたき、母の手を両手で包む。
「おやすみなさい。あいしています。かあさま。かんうさまやりゅうびさまは、じぶんがぜったいに、まもりますから、しんぱいしないで……」
子供なりに必死に涙を堪えて、力強く、言う。
夏侯惇は母の為に強く在ろうとする我が子愛しさに、小刻みに震える頭をそうっと撫でた。
すると、子はすぐにきびすを返すのだ。
何をするつもりかと思えば、自分が曹操や猫族に報せにいくからそれまで母を抱き締めて見ていてくれと、はっきりとした声で言い残して飛び出した。
我が子ながら、強く、思いやりに溢れて育ったものだ。あれはきっと母を見送った後、誰もいない場所で泣くだろう。
誰にも見せまいと涙を隠して、笑みを浮かべるだろう。
「だがあれでは、将来何もかも己にため込んでしまうだろうな」
誰か信の置ける者が、支えてくれれば良いが。
独白し、夏侯惇は幽谷を見下ろす。頬を撫でる。だいぶ冷たくなっている。
最期に残ったのが、聴覚ならば良かった。
そうすれば、先程言った『愛している』は、彼女の最期の時に届けられただろう。
「愛している……我が最愛の妻、幽谷」
夏侯惇はもう一度、妻の死に顔に口付けた。
●○●
良い夫婦の日の小説としてパッと浮かんだ話を急ピッチで書き上げたものです。
子供の性別はおまかせで。
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